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特集:再び「テロと格差の時代」への私論

本誌の前号では、2015年初頭を騒がせている2つのテーマ「テロと格差」を取り上げました。前者はフランスで起きた連続テロ事件、後者はピケティの『21世紀の資本』について触れたわけですが、いずれも「低成長で戦争のない時代」の産物であり、互いにけっして無関係ではない、というのがとりあえずの結論でした。

その後の2週間は、「日本人2人がISIL1の人質になり、殺害される」という衝撃的なニュースがあり、さらにピケティ訪日も重なって、ますます「テロと格差」に注目が集まる展開となりました。この際、本誌としても2つの問題にとことん付き合うことにして、本号では「ぶっちゃけ」ベースの個人的見解を披露してみたいと思います。

●ISILのあまりの無軌道ぶり

今回の日本人人質事件では、最初からどうしても腑に落ちない点があった。1月20日に湯川さん、後藤さんが人質になった時点で、2億ドルの身代金要求があったわけだが、ISILはそんな大金をどうやって受け取るつもりだったのか、である。

もはや「スイスの秘密口座」などといった、古式ゆかしい手法が通じる時代ではない。対テロ対策、マネーロンダリング対策が徹底した今日においては、怪しげな資金の授受に銀行が使われることはあり得ない。入金と同時に凍結されてしまうだろう。これがハリウッド映画であれば、金塊を使うとか、ドル以外の紙幣を使うとか、国債や株券を要求するとか、皆に「なるほど」と思わせるトリックを披露せねばならないところである。

1いくら鍵カッコつきでも「イスラム国」という表現は不適切に思えてきたし、耳で聞いた場合には区別がつかないので、本号より表記を変更した。”Islamic State of Iraq and the Levant”の略だが、あいにく彼らは「イスラム的」ではなく、「国」でもなく、「イラク」でも「レバント」でもなかった。

ちょうどユーラシアグループが、今年のTop Risks 2015の第4位に“Weponization of Finance”(米国による金融制裁の多用)を取り上げている。米国のGDPシェアが世界の22%に低下した今日でも、金融取引の81%はドルで行われている。その強みを生かして、米国は「自分にリスクのない制裁策」を多用している。しかるに金融制裁とは、世界中の多国籍企業が米国政府の手先になるのと同じである。だから当該政府による嫌がらせや、サイバー攻撃といった報復措置を受けやすくなりますよ、というリスクを指摘したものである。

さて今回の場合、ISILはどうするつもりだったのか。仮に現金を授受するとしたら、日本政府は100ドル紙幣を200万枚(それも通しナンバーでないもの!)を用意しなければならない。普通に考えて、72時間ではとても間に合わないだろう2

もちろん日本政府は、そのような可能性を模索しなかったはずである。ISILの側も、その点を深く考えていなかったようである。というより、最初からカネを取ろうなどとは思っていなかったのであろう。もしもカネが目的であったならば、もっと現実的な金額を提示し、水面下で政府に働きかける方が合理的である。最初から「目立ちたいだけ」の劇場型犯行であったと考えるべきだろう。

途中から要求項目は、ヨルダン政府に対する人質交換に移った。そこでヨルダン人パイロットの解放を求められると、ISILは期待を持たせるような態度を見せたのだが(しかも人質の後藤健二さんの口を使って!)、実はパイロットは1月3日に殺害済みであった(しかも生きたまま焼くという酷い方法で!)。どうもISILという集団は、子供じみた残虐性と同時に、意思決定が「行き当たりばったり」であるところが、昔の「オウム真理教」に重なって見えて仕方がない。

これだけ無軌道で無慈悲なところを見せてしまうと、今後はISILとまともに交渉しようという相手は出てこなくなるだろう。というより、彼らの「意図」や「心理」を理解しようとすること自体が単なる徒労に思えてくる。尐なくとも、普通のムスリムやイスラム圏の国とは一線を引いて捉えるべき存在であるし、そもそも混同すること自体が失礼というものである。

今週、通常国会の予算委員会では、「政府の行動に瑕疵はなかったか」という論議が行われている。もちろん一連の過程は検証されなければならないが、「こうしておけば助けられたはず」式の議論はあまり意味がないと思う。残念ではあるが、人質を生かして返すような甘い連中ではなかったし、「日本の援助が軍事か非軍事か」といった点をいちいち考慮してくれるようなヤワな相手でもなかった。

今回の事件における日本政府は、「誰でもわかるようなボーンヘッド」がなかった点も評価しておきたい。すなわち政府からの情報漏れや、一部閣僚による「不規則発言」、あるいは官邸と省庁間の利害対立といった事態である。とりあえず発足して1年ばかりの「日本版NSC」は、有効に機能していたと見て良いのではないだろうか。

2 日本中の銀行を探してもそれだけのドル紙幣はないだろうし、FRBに頼んでも一発で断られるだろう。


●「テロの時代」の日本外交とは

前号で述べた通り、「テロは低成長で戦争のない時代の産物」であるとしたら、われわれは引き続き辛抱強く、ISILやアルカイダなどという困った同時代人たちと付き合っていくほかはないらしい。

個人ベースでなら、「なるべく中東とは関わり合いにならないようにする」よう努めるのもひとつの方策であろう。だが、日本全体としてそれが許される状況ではない。端的に言えば、5年後の東京五輪には世界中から大勢の人がやって来る。そのときにISILによるテロをどうやって防ぐのか、という差し迫った問題がある。

テロの可能性を未然に封じ込めるためには、各国間の諜報協力が欠かせない。評判の悪い「特定秘密保護法」も、いわばそのために導入されたという経緯がある。日本は中東での空爆や後方支援には参加しないにせよ、「われわれは対ISIL有志連合の部外者です」などという態度をとることは、最初からあり得ない選択なのである。

もう一点、たまたま現地に足を踏み入れた日本人が怖い目に遭っても、それは「自己責任論」で済ませられるか、という問題がある。

今回のように自国民が人質になった時に、ときの政府が全力を尽くすのは当然のことである。主権国家としての責務というのもさることながら、自国民を守ろうとしない外交は、他国の外交から侮りを受ける。かといって1977年のダッカ事件のように、ハイジャック犯に甘過ぎる対応をすればこれまた失望を招く(というより、他国にとって迷惑である)。身代金を払うべきではないけれども、かといって知らんぷりもできない。そういう状況で、日本外交は試されていたわけである。2人の人質を失うという結果は辛いものであったが、一連の経緯はまっとうな対応だと見られていたのではないかと思う。

もうひとつ、人質になった人に対して「放っておけ」はともかく、「自決せよ」などという一部の声はさすがに行き過ぎであろう。日本社会に特有の同調圧力といえばそれまでであるが、いくら政府が事前に渡航禁止を言い渡すにしても、個人の自由を完全に制限するのは無茶な相談である。たぶん同様の事態は今後も繰り返されるであろうから、嫌な言い方になるが、こういうことには「慣れて」おく必要がある。

特にジャーナリストというものは、危険なところに足を踏み入れるのが商売なのである。彼らが「蛮勇」を振るうのは、功名心やカネのためもあるだろうが、基本は他の人々の「知る権利」のためである。ジャーナリストが政府の言うことを素直に聞くようになるときは、政府にとって都合の悪い話が書かれなくなるときかもしれない。テロによる被害を警戒するあまりに、両者のあるべき緊張関係が失われることがあってはならないだろう。

つまるところ「テロの時代」の心得とは、個人も政府も従来からの原則を曲げずに「痩せ我慢」をするということに尽きる。多くの人が感情に押し流されるようになれば、もっともわかりやすい形でテロリスト側の「思うつぼ」となってしまうのである。


●格差問題の本質は「相続」にあり

次に「格差」に論点を移そう。

買ったばかりの『21世紀の資本』をまだ読み終えたわけではないのだが、とりあえず「第11章 長期的に見た能力と相続」が面白いということをお知らせしたい。ピケティの議論の中核は、「相続」の部分にあるのではないかと筆者は受け止めている。ピケティにかこつけて「正規と非正規」の話をしたがる人は、単に自分の持論を補強したいだけであって、本書のメッセージをキチンと受け取っていないのではないかと思う。

そうでなくとも、格差に関する議論は党派色が強いものになりがちである。ピケティ自身もそのことに辟易しているようで、序文の中で、「富の分配」をめぐる議論の多くは「お互いが相手の怠慢を指摘することで自分の知的怠慢を正当化している」という厳しい評価を与えている。確かにそういう印象は否めない。他方、これだけの大著を書いたピケティに対して、「知的に怠慢」という評価はさすがに不適切であろう。

思うに「r>g」という公式は、「資本収益率>経済成長率」と読み替えるから焦点がぼけるのであって、これを「不労所得>勤労所得」であると受け取ると、尐し身に沁みて感じられるようになる。さらに「低成長で戦争のない時代」になると、r>gがより強くなってしまうので、「不労所得が勤労所得よりも重きをなす」ことになる。結果的に、「相続所得が労働所得よりも大きな割合を占める社会」になることを意味する。この説明の方が、本書のメッセージをよりリアルに伝えていると言えるのではないか。

少し身の上話をさせていただくと、1984年に日商岩井に入社した当時の筆者の全財産は10万円であった。この虎の子を、当時流行だった「中期国債ファンド」に入れて、今はなき山一證券に預けていた。それから30年以上が過ぎて、今現在、筆者が保有する資産はほとんどが自分で稼いだものということになる3

この間、「格差」や「不平等」をほとんど意識しなくて済んだのは、今から考えるとまことにラッキーなことであった。昭和ひとケタ世代に育てられた地方出身者としては、「財産は個人の努力と倹約で作る」ことが当たり前であった。そもそも親たちはモノのない時代に質素に育っている上に、戦災で家を焼かれたり、インフレで財産が無価値になったりしている。そういうゼロスタートではあったが、幸いにも高度成長時代のメリットは享受した。筆者の前後の世代は、そういう楽天主義を親たちから継承していると思う。

ピケティの議論から行くと、こんな風に楽観的でいられたのは20世紀のごくわずかな時期の世代に限られる。戦争の記憶が遠くなるとともに、r>gという法則に導かれて、世の中は確実に「勉強と労働では、とうてい快適で優雅な生活は得られない」(『21世紀の資本』p194)という19世紀型の社会に向かっている、というのである。

3 柏市の住居と若干の金融資産などで、世界第3位の経済大国の中産階級として威張れるほどではないけれども、自分にとってはけっして尐ない額ではない。


●「相続>所得」時代のライフスタイルとは?

ピケティはバルザックやオースティンの小説を引用して、19世紀の社会がどんな風であったかを描き出している。それらを読んでない筆者としては、シャーロック・ホームズの作品群の多くが、「相続」を犯行の動機や事件の小道具にして成立していたことを思い出す4。当時の人気連載小説がネタにしていたということは、今とは違って誰もが「遺産」を意識している社会であったということであろう。

19世紀のフランス上流階級では、女性には持参金がつきものであった。持参金が年間で何万フランをもたらすかによって、女性の価値が決まった(時には美貌や才覚や家柄以上に!)。相続が国民所得(フロー)の4分の1を占めて、資本(ストック)のほとんどを担っていた時代であるから、無理もない話である5。そういうお金がなかったら、音楽会に行ったり、お洒落をしたり、使用人を使ったりといった「当たり前の暮らし」ができなかった。これでは人生において「勉強や勤労」よりも、「結婚と相続」の方が重要だということになる。なんとも嫌らしい時代ではないか。

しかもこれは、当時の社会のトップ1%くらいの人たちに限られた話である。99%の人たちには、ほとんどチャンスがなかった。同じころの日本では、士農工商という身分制度があって、財産どころか職業も親から継承していた。「職業選択の自由がない」というまことに前近代的な社会であった。とはいえ、「武士は威張っていてもカネがない」「職人は腕が良ければ尊敬される」式のトレードオフがあっただけ、まだしも救いがあったようにも思える。尐なくとも江戸時代が残した文学(井原西鶴や十返舎一九など)は、『レ・ミゼラブル』に比べるとはるかに明るい社会の気分を今に伝えてくれる。

当時の欧州は低成長であったから、個人が自前で生み出す新しい価値よりも、親や親族から引き継ぐ古い財産の方が重きをなしていた。今日のわれわれが相続をあまり意識しなくなっているのは、たまたま2度の世界大戦で国富が失われ、資産家が没落して例外的に格差が縮小した時期に生まれたからに過ぎない。その後の高度成長時代は、「個人の努力が報われる」幸せな状況をもたらしてくれた。だが21世紀の社会は、経済の低成長化や尐子化に伴って、再び19世紀のような格差社会に戻りつつある。

つくづく『21世紀の資本』が中心テーマとして掲げているのは、「富の分配」であって「格差の是正」ではない。両者は似ているようで違う。格差という現在の経済面の不平等だけが問題なのではなくて、富の不均衡は長い時間をかけて価値観や社会に歪みをもたらす。そっちの方が、より重大で深刻なテーマであるはずだ。

4 「まだらの紐」も、「赤毛組合」も、「ぶな屋敷」も、「ノーウッドの建築業者」も、「3人ガリデブ」も、遺産相続が仇になったり、奇怪な遺言書が登場したりという筋立てばかりである。
5 ピケティの試算によれば、19世紀の欧州においては相続による所得が、年間の国民所得のうち20~25%を占めていた。これだと資本ストックのほぼすべてが相続に由来していたことになる。


●次世代のために何を残すのか

21世紀が19世紀のような世の中になり、ますます人生の中で相続が重きをなすようになるのだとしたら、国レベルでも個人レベルでも、「次世代に何を残すか」ということを今まで以上に考える必要があるだろう。たとえスズメの涙ほどの財産であっても、なるべく有効な形で孫子の代に伝えたいものである。

「子孫のために美田を買わず」という西郷隆盛の遺訓がある。この言葉にも、われわれの世代と同様に、恵まれた時代を生きた人の「勘違い」が入っているのかもしれない。幕末から明治にかけての激動期は、没落や成上りが同時進行していた。そういう時代であれば、「子供には教育以外は何も残す必要はない」という教えが正しいことになる。

ところが世の中が安定期に移行するとともに、途端に子供らが親から受け継いだ美田を競い合うような時代になってしまう。実際に西郷が西南の役で倒れた後は、コネや血縁が幅を利かせる藩閥政治が始まっている。

ここで筆者は悩んでしまう。親の世代が子供たちに対して、自分たちの世代の常識を強制するのは考えものなのだろうか。実はどんな財産よりも、親からの無形のメッセージの方が子供にとっては重要なのではないかという気もするところである。

最後に「相続」に関して、今後の論点となりそうなことを列挙しておこう。

第1にこの国は、非常に累進性の高い相続税制を用いている。それはr>gに対する有効な対策になり得るのだろうか。あるいは、他国が真似をすべきことなのだろうか。

この点については、「税制は国の歴史や伝統によってまったく違う」としか言いようがない。日本人は消費税には敏感だが、所得税や相続税にはまことに寛大である。逆にフランス人は所得税を嫌い、世界で初めて消費税を導入したことを誇りとしている。国によって税制への考え方は違い過ぎるので、ピケティの提案する「グローバルな資本課税」は実現可能性が低い。日本だけがソリューションを有していると考えるのは錯覚であろう。

第2にこの国では、資本の長期の運用先がない。長期金利は低く、株にはリスクがあり、不動産運用は人口減尐によってすぐ「空き家」になってしまう。ピケティの議論では、rはいつの時代でも5%前後になることになっているが、今の日本では果たして富裕層に適当な運用手段が残されているのだろうか。

この問いへの答えは難しい。ひとつのアイデアは、「住宅くらいはいいものを次世代に残そう」というものである。が、安くて長持ちしそうにない建売住宅ばかりが売れる一方で、まともな大工さんや左官屋さんが足りない、という現状は明らかに正反対の方向に向かっている。 しみじみ日本は「課題先進国」であるらしい。ピケティの問題提起に対し、日本から何か有効な提案ができないものだろうか。

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