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【読書感想】私とは何か――「個人」から「分人」へ

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

内容(「BOOK」データベースより)

小説と格闘する中で生まれたまったく新しい人間観!嫌いな自分を肯定するには?自分らしさはどう生まれるのか?他者と自分の距離の取り方―。恋愛・職場・家族…人間関係に悩むすべての人へ。



読みながら、「ああ、そういうことなのか!」と感心したり、「でも、それって結局のところ『言葉遊び』なんじゃないか?」と思ったり。

もっとも「言葉遊び」なんていうのは、僕からみた偏見であって、平野啓一郎さんにとっては「言葉こそが、すべての起源」なのだろうな、とは感じます。


平野さんは、この新書のキーワードとなる「分人」を、こんなふうに定義しています。

すべての間違いの元は、唯一無二の「本当の自分」という神話である。

そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。


「個人(individual)という言葉の語源は、「分けられない」という意味だと冒頭で書いた。本書では、以上のような問題を考えるために、「分人(dividual)」という新しい単位を導入する。否定の接頭語inを取ってしまい、人間を「分けられる」存在と見なすのである。

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。

個人を整数の1とするならば、分人は、分数だとひとまずはイメージしてもらいたい。

私という人間は、対人関係ごとのいくつかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには、決して生じないものである。


「スクールカースト」とか、「学校内で『キャラ』を演じている」なんて、いまの中高生は語られる(あるいは、彼ら自身が語っている)のを耳にするのですが、考えてみれば、僕が学生だった20〜30年くらい前だって、「嫌われないように、『本当の自分』を偽って、みんなに迎合している」と感じていたことはあったんですよね。

そして、「本当の自分」がどんなものかよくわかっていないにもかかわらず、「これは本当の自分じゃない」ことに悩んでしまう。

「分人」という造語について、別に、従来のキャラとか仮面といった言葉で十分なんじゃないかという指摘を何度か受けた。しかし、キャラを演じる、仮面をかぶる、という発想は、どうしても「本当の自分」が、表面的に仮の人格を纏ったり、操作したりしているというイメージになる。問題は、その二重性であり、価値の序列である。

もうしばらく、私自身のエピソードにつきあってもらいたい。

京大に通っていた頃、郷里の北九州の友人が遊びに来たことがあった。高校の同級生で、何日間か、私の部屋に泊めてやったのだが、丁度、大学の友人たちと焼き肉を食べに行く予定だったので、何の気なしに彼も連れて行った。

しかし、私はそのことを、あとでちょっと後悔した。大学の友人と高校の友人とは、お互いに初対面だった。共通の話題と言えば、ひとまず、私の話しかない。大学の友人たちは、高校時代の私がどんなふうだったのか、好奇心に駆られて尋ねるのだが、そのやりとりを端で聞いている私は、何とも言えず、居心地が悪かった。

高校の級友が、こいつは昔は、こうだったよ、ああだったよといろんな話をする。別に、悪事の数々を暴露される、というわけでもなかったが、その度に、一々大学の友人が、へえー、と大袈裟に驚いて、今はこうだ、ああだと、その違いを面白がっている。私は苦笑しながら、「まあ、もう、昔の話だから」とか何とか言って、焦げかかっている肉の世話でもするフリをしながらごまかしていた。複雑だったが、強いて言うなら、やっぱり「恥ずかしい」という感覚だった。

しかし、どうして「恥ずかしい」のだろう?

私はその時、彼らとの会話もややこしかった。高校の友人と話す時には、なんとなく、彼との会話の口調、彼という時の態度になっている。第一、地元の北九州弁だ。で、大学の友人に喋りかける時には、やっぱり彼ら向けの自分になっている。ノリが違う、と言うのか。終いには酒も入って、場も和んで終わったが、私の結論としては、大学の友人とは大学の友人だけで、高校の友人とは高校の友人だけで会った方が気楽で良いな、というものだった。

この話を人にすると、似たような経験は確かにあると、共感してくれる人が多かった。

これは、人間のどういう心の動きなのだろうか?


こういう状況を経験したことがある人は多いのではないかと思います。

これと同じような話というか、「仲間うちでの飲み会や食事の席に、『今日は私の友達も連れてきたから』といきなり初対面の人を連れてくる人が嫌い」という話が、最近、『怒り新党』で採り上げられていたなあ、と思いながら、これを読んでいました。

これって、「いきなり知らない人と焼き肉を食べることになった平野さんの友達」も、それぞれ大変だったのではないかなあ。

そういうのを「人脈が広がる」と喜ぶ人がいるのも事実ではあるのですけど。

この新書、内容はけっして簡単ではないのですが、こういう、わかりやすい例がかなりたくさんあげられていて、かなり読みやすくなっています。

平野さんの言葉の定義を理解するのは難しいところはあっても、「なるほど、こういう感じなのか」と具体例で理解に近づくことはできるのです。

この例の場合では、平野さんは、高校時代の友人、大学時代の友人、それぞれにキャラを忙しく演じ分けているというのはおかしいし、どちらも「ウソの自分」だとは思えなかった、と仰っています。

もし、人間は、対人関係ごとに色んな自分を持っている、そして、それはキャラや仮面ではなく、すべて「本当の自分」だ、ということが、当然のこととして理解されていたなら、彼らは高校時代の私を、大学時代の私との違いに、一々大袈裟に驚かなかっただろう。なぜなら、その違いの原因は、彼ら自身だからである。私も別に「恥ずかしい」と感じることもなく、「お前らと一緒にいたらそうなった」と言って終わりだったのではないか?


こう言われてみると、けっこう腑に落ちるような気がするんですよね。

これってある意味、「人間には『心』なんてものは存在しなくて、環境から入力されたコマンドに対して反応するプログラムみたいなものだ」ということなのだろうか?とも考えてしまいますし、むしろ、そう考えたほうがラクになるのかな、などと僕は思っているのですが。

この新書では、「分人」という発想を持つことのメリットが、こんなふうに書かれています。

学校でいじめられている人は、自分が本質的にいじめられる人間だなどと考える必要はない。それはあくまで、いじめる人間との関係の問題だ。放課後、サッカーチームで練習したり、自宅で両親と過ごしたりしている時には、快活で、楽しい自分になれると感じるなら、その分人こそを足場として、生きる道を考えるべきである。

貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。学校での分人がイヤになっても、放課後の自分はうまくいっている。それならば、その放課後の自分を足場にすべきだ。それを多重人格だとか、ウラオモテがあると言って責めるのは、放課後まで学校でいじめられている自分を引きずる辛さを知らない、浅はかな人間だ。学校での自分と放課後の自分とは別の分人だと区別できるだけで、どれほど気が楽になるだろう?嫌がらせメールを送りつけたりする人間は、家庭ではせめて家族との分人を生きようとしている人を、学校でのいじめられている分人へと無理矢理引き戻そうとする陰湿な輩だ。

イジメや虐待の過去を持っている人も、分けられない「本当の自分」という考え方を強要されるなら、誰と新しい関係を結ぼうとしても、毎回、その体験へと引き戻されてしまう。この人は、自分に暴力を振るわないだろうか?自分はやっぱり、愛されない人間なのではないだろうか?

しかし、新しく出会う人間は、決して過去に出会った人間と同じではない。彼らとは、まったく新たに分人化する。そして、虐待やイジメを受けた自分は、その相手との分人だったのだと、一度、区別して考えるべきだ。自分を愛されない人間として本質規定してしまってはならない。そして、もし新しい分人が自分の中で大きく膨らみ、自信が持てるようになったなら、そこを足場にして、改めて過去の分人と向き合ってみればいい。

「人格はひとつしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。


平野さんは「考え過ぎて、自分を追いつめてしまうタイプの人」に、すごく温かい言葉をかけてくれているのだと思います。

こんなふうにイメージすることができれば、もうすこし生きやすくなるのではないかなあ。

ただ、その一方で、いまイジメの渦中にいて、毎日学校に行くのがイヤ、あるいは、もう死んでしまいたい、という状況のとき、「あれは分人なのだ」と考えるだけで、当事者が救われるというほど簡単なものではない、とも僕は感じるのです。

だから、この本が役に立つのは、「いま溺れている人」ではなくて、「これから海に入る人」じゃないかと思うんですよ。

「あらかじめ、心の準備をして、いざというときのための自分の分人を意識しておく」ことは大切だけれど、いま溺れているときは、「自分には、そういう分人なんていない」ということに、かえって打ちのめされる危険もある。


ところで、これを読んでいて、僕は「じゃあ、ひとりで考え事をしているときの自分は、どうなるのだろう?」と考えていたのですが、平野さんは、それに対してもひとつの答えを提示しています。

私たちは、一人でいる時には、いつも同じ、首尾一貫した自分が考え事をしていると、これまた思い込んでいる。しかし実のところ、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考え事をしているはずである。無色透明な、誰の影響も被っていない「本当の自分」という存在を、ここでも捏造してはならない。よくアニメなどで、頭の中で天使と悪魔が戦いあったり、脳内会議が開かれている場面が描かれるが、あんなふうに、私たちは様々な分人を通じて、考えごとに耽っているはずだ。


たしかに、言われてみれば、その通りなんですよね。

ひとりで考えごとをしていても、よほど強迫的な観念に支配されているとき以外は、自分のなかのいろいろな要素があらわれて、ああだこうだと議論しているのだよなあ。


正直、僕にとっては「面白いなあ」と「だから何なんだ?」が入り混じっていた本でした。

でも、この本によって、「救われる」あるいは「少し気がラクになる」人は、確実にいるのではないかと思います。

興味を持たれた方は、「溺れる前に」読んでおくことをオススメします。

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