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大阪維新の会のエセ科学的「家庭教育支援条例(案)」逐条批判

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大阪維新の会大阪市会議員団が提出しようとしている「家庭教育支援条例(案)」が大きな批判を浴びている。特に「発達障害は親の育て方が悪いから」というエセ科学理論を前提とした提案であることが批判の的となっている。エセ科学と伝統偽装に裏打ちされた提案は、現実には害悪しかもたらさないだろう。

この条例の思想のバックボーンには、ある一般財団法人が絡んでいることも見逃せないポイントだ。その財団法人の付与する民間資格を支援するとも明記されている。

以下、自由法曹団のサイトで公開された「大阪市・家庭教育支援条例 (案) ――― 全条文 (前文、1~23条)」をもとに、逐条批判していきたい。

全体

家庭教育支援条例 (案)

平成24年5月 「大阪維新の会」 大阪市会議員団

* 第1章 総則 * 第2章 保護者への支援 * 第3章 親になるための学びの支援 * 第4章 発達障害、虐待等の予防・防止 * 第5章 親の学び・親育ち支援体制の整備

これは「大阪維新の会」大阪市会議員団が提出した案である。橋下徹氏のシンパの中には「新聞記事によれば、この条例案は議員提案であり、橋下市長自身は条例案の中身については知らないということなので、維新の会を叩く根拠にはなっても橋下市長を叩く根拠にはなりませんよ」と主張する人もいる。もっとも、後述するように、橋本市長は「市民に義務を課すのは基本的に好きじゃない」という観点で発言しており、この条例案の根本的な問題点は認識していないようである。

前文1 伝統偽装

(前文)
 かつて子育ての文化は、自然に受け継がれ、父母のみならず、祖父母、兄弟、地域社会などの温かく、時には厳しい眼差しによって支えられてきた。
 しかし、戦後の高度成長に伴う核家族化の進展や地域社会の弱体化などによって、子育ての環境は大きく変化し、これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず、親になる心の準備のないまま、いざ子供に接して途方に暮れる父母が増えている。

 前文の第一パート。初っ端から「かつて子育ての文化は」という伝統偽装の文面が踊る。昔はよかった、という黄金時代回想論の多くは、具体的な時期を明記しない。もしくはごく限られた時代のみを「これまでずっとそうだった」と述べる。

 しかし、理想的な子育ての時代は本当にあったのか。戦前までは間引きもあった。伝統的な子育て文化としては乳母も見過ごせない。

 子育て文化を担うのが親だけでなく地域社会なども含まれる、というのはそのとおりである。この点、「親だけに子育ての責任を負わせる」という自民党の主張とは正反対である――かのように見えるが、実はこの維新案も同じである。いや、子育ての全責任を「親の親心の喪失と親の保護能力の衰退」に押しつけているという点で、この前文の言葉とは完全に矛盾しているのである。

 各条文で見るとおり、地域社会が親を支援する(つまり、親が負担を負いすぎなくてよいようにバックアップし、時には代行して親を休ませる)ような内容は何一つとしてない。すべて「親の親力が衰退しているから、特定の子育て思想に基づいて親を鍛え上げよ」という提言となっている。

 第二段落で「これまで保持してきた子育ての知恵や知識が伝承されず」というのは、「これまでの祖父母や親族からのルートでは」という但し書きが必要である。現在はそれを補う存在として、プレママ雑誌や子育て雑誌、通信教育(ベネッセ等含む)、母親学級・両親学級、その他自治体や民間の支援サポート体制があるわけだ。

 ちなみに、ここまでの「伝統偽装」として、核家族化以後おかしくなったと言いたげだが(そうすると、40代のわたしの世代も当然、「親心を喪失し、保護能力を失った親」に育てられたということになるのだろう)、実際は日本において家事や育児に専念できる「専業主婦」が定着したのは高度成長期の「男の稼ぎで一家を支えられるようになった」時代だけである。それ以後の景気低迷の中で再び兼業主婦が増えたということは、「専業主婦の時代」は高度成長期のたかだか数十年の幻想といえるだろう。

 そもそも、主婦という言葉の発祥は大正六年(1917)つまり約100年前、『主婦の友』創刊時の造語であり、「主婦は一家を支える二つの柱、主人に対しての主婦」という理念だった。それ以前は主婦という概念すらなかったわけである。

前文2 エセ科学的断定

 近年急増している児童虐待の背景にはさまざまな要因があるが、テレビや携帯電話を見ながら授乳している「ながら授乳」が8割を占めるなど、親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題があると思われる。

 前文の第二パート。このあたりから文章が右往左往する。ここでは「児童虐待の背景」として「親心の喪失と親の保護能力の衰退という根本的問題」を結びつけている。虐待をする親に情緒的その他の問題があることは確かだとしても、それが「ながら授乳が8割を占める」ということとは何の関係もない。児童虐待している親とそうではない親(大多数)を比較して児童虐待の親のながら授乳率が有意に高いなどという調査は、寡聞にして知らない。むしろ、「ながら授乳」と児童虐待には相関性はないと見るべきである。

 ここでは「児童虐待=親の能力衰退」と決めつけていることを押さえておこう。

 さらに、近年、軽度発達障害と似た症状の「気になる子」が増加し、「新型学級崩壊」が全国に広がっている。ひきこもりは70万人、その予備軍は155万人に及び、ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている。

 「気になる子」「新型学級崩壊」と「ひきこもりとその予備軍」を並べ、「ひきこもりや不登校、虐待、非行等と発達障害との関係も指摘されている」という。特に後文は意味不明である。というのも、「虐待」というのは親から虐待を受けたことを指す言葉である。一方、ひきこもり・不登校・非行というのは情緒障害と深い関係がある。そして、器質的要素が非常に大きい発達障害は、また別のことである。

 これらの相関関係については、「明らかになっていない」というのが現在の研究成果である。たとえば横谷祐輔・田部絢子・石川衣紀・髙橋智「「発達障害と不適応」問題の研究動向と課題」(東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 61(1): 359-373, 2010-02-00)によれば、

「発達障害と非行等に関するレビューでは以下のような課題が明らかになった。事例研究においても量的な調査においても,その母集団において特殊なケースが多く,解釈にはその特殊性を十分に考慮しなければならないにもかかわらず,発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化してしまっている研究も多いという問題が明らかになった」

ともある。つまり「発達障害と非行・行為障害・触法行為を直接的な関係・要因として般化」することは適切ではないということだ。

また、虐待を受けた児童に問題が起こりやすいとしても、それらの問題の原因をすべて虐待とするわけにはいかない、というのもまた至極当然の話だろう。いま仮に「虐待を受けた児童に発達障害が多く見られる」としても(これも否定する実証研究がある)、発達障害の子供は親に虐待を受けたからだ、という結論は絶対にありえない(ある、と思う人は、論理学の基礎中の基礎をやり直すべきだろう)。

しかし、この条例案の中では「親心の喪失・親の保護能力の衰退」→「虐待」→「発達障害」→「引きこもり・非行・不登校・気になる子・新型学級崩壊」という「エセ因果関係」が前提となっていることが読み取れる。とんでもない話である。「笑えたり、楽しんだりできないものは除く」というトンデモの原義から言えば、これはトンデモですらない。単なる「エセ人文科学」である。

前文3 親のみに責任を問う

 このような中で、平成18年に教育基本法が改正され、家庭教育の独立規定(第10条)が盛り込まれ、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と親の自覚を促すとともに、「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」と明記した。
 これまでの保護者支援策は、ともすれば親の利便性に偏るきらいがあったが、子供の「育ち」が著しく損なわれている今日、子供の健全な成長と発達を保障するという観点に立脚した、親の学び・親育ちを支援する施策が必要とされている。それは、経済の物差しから幸福の物差しへの転換でもある。
 このような時代背景にあって、本県の未来を託す子供たちの健やかな成長のために、私たち親自身の成長を期して、本条例を定めるものである。

 大阪市の条例案で「本県」というのは、この案を日本全国に適用させようとしているからだ、という意見もあるので、ここでは深く突っ込まない。

 この前文3で強調されているのは、「親を鍛え直さなければならない」という主張である。それは「保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援」するという教育基本法の条文とは食い違う。なぜなら、それに基づく「母親学級」などの施策とは異なり、「親の利便性」(と彼らが主張するもの)を激しく敵視した上で、「子供の「育ち」が著しく損なわれている」というズレた現状認識のもと、「親の学び・親育ちを支援する」というより強制することを宣言しているからである。

 わたし自身も経済より幸福の物差しへ転換するという言葉自体には賛同したいが、残念ながらここで言っている「幸福の物差し」とは、「特定のゆがんだ、エセ科学的な前提に基づいた親たちへの“洗脳”」にほかならない。

第1章 (総則)

第1章 (総則)

(目的)
第1条
1項 親およびこれから親になる人への「学習の機会及び情報の提供等」の必要な施策を定めること
2項 保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定めること
3項 前2項の目的を達成するため、家庭教育支援推進計画を定めること

第一条1項はまあいいだろう。問題はその学習・情報の内容である。

第2項。ここが大変なところである。発達障害は、決して親の責任ではない。まずこの科学的前提を踏まえる必要がある。発達障害の「予防・防止」など、現在の日本にはそれを可能とする理論も技術も存在しない(実効性のないトンデモ私論を除く)。「保育、家庭教育の観点から」といって発達障害と虐待を同列に扱っている時点で、この条例案は非科学的な妄想でしかないと言い切ってよい。

なお、発達障害の原因として虐待が関係するかどうかについては、たとえば中根成寿「障害は虐待のリスクか?~児童虐待と発達障害の関係について~」(京都府立大学福祉社会研究 8, 39-49, 2007)を参照してみよう。この論文自体は「子供に発達障害があると親は虐待しやすくなるのか否か」ということを考察しており、今知りたいこととは逆のアプローチといえる。ただ、その中で、「田中(2003、2005)は児童の障害(発達障害含む)と児童虐待は本来直接の因果関係や関連が証明されているわけではなく、障害をもつ子どもの多くが虐待されているわけでもない、と指摘している」という。(ここで参照されている論文は、田中康雄(2003)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『臨床精神医学』3(2):153-159、同(2005)「発達障害と児童虐待(maltreatment)」『子どもの虐待とネグレクト』7(3):304-312)

また、中根氏の論考のまとめでは以下のようにも記されている。

「虐待のハイリスクグループ、つまりすでに虐待が起こった家族においては児童の障害は当該家族にとって数多くある虐待要因の一つであることが先行研究から確認された。だが、児童の障害があっても虐待とは無縁な層も数多く存在しており、なぜその家族にとって児童の障害が虐待へとつながらないのかという補償要因の調査は、現実的に実現が難しい。
 また本稿では虐待と児童の障害の種類において、行動障害や自閉傾向を示す児童により高いリスクがみられることから発達障害に注目したが、児童虐待の二次的被害と発達障害の症状とは、実際の臨床場面では判別不可能に近いという指摘もあり、どちらが原因であるかが明らかにならない「微妙な関係」(田中 2006:193)である。」(※参照論文は、田中康夫(2006)「軽度発達障害と児童虐待の微妙な位置関係」『現代のエスプリ―スペクトラムとしての軽度発達障害I』474:187-194)

「児童の障害は児童虐待のリスク要因ではあるが単一の発生要因ではない。児童の障害に加えて、貧困や社会的孤立、親自身の健康状態や障害という他のリスク要因が加わって初めてリスクが顕在化する。山野(2006)が言うように児童虐待の増加は児童の障害や子育てのストレス、母親の孤立よりも、生活保護世帯の増加や失業率の増加との相関も高い。」(※参照論文は、山野良一(2006)「児童虐待はこころの問題か」上野加代子編『児童虐待のポリティクス―「こころ」の問題から「社会」の問題へ』明石書店:53-99)

 この条例案が目の仇にしているのは、ネグレクトすなわち育児放棄であろう。ネグレクトは立派な「児童虐待」の一つである(肉体的な暴力を振るわないタイプの虐待である)。ところが、その児童虐待と発達障害の因果関係については、「明らかにならない」とされている。子供に障害があるから虐待した、という親は確かに存在するが、そうでない層もある。つまり、虐待と無縁なのに発達障害という子供は、例外どころか普通に見られるのだ。

 つまり、「発達障害」を「予防・防止」するために「親」をなんとか教育しよう、というのは、まったくもって見当外れのエセ科学的方策としか言いようがないのである。

(基本理念)
第2条
家庭教育の支援は、次に掲げる条項を基本理念として、推進されなければならない。
(1) 親は子の教育について第一義的責任を有すること
(2) 親と子がともに育つこと
(3) 発達段階に応じたかかわり方についての科学的知見を共有し、子供の発達を保障すること

 こういう理念を持つこと自体は「言論表現の自由」から言っても認められるべきだろうとは思うが、エセ科学に基づいた発想で作られたこの条例案の中で「科学的知見を共有」というのは何かの皮肉であろうか。

 なお、現在の子育て/少子化問題における最大の問題は、「(母)親に子育ての過分な責任が強要される」ことにあると考えている。「母乳がいい」というのは事実だが、「母乳でなければダメ」「母乳を与えない母親は失格」「母乳でなければ育児とはいえない」というような発言が普通に見られ、それが母親もしくは母親になろうかと考えている女性への強大な精神的圧迫となっている。

 これは「保育所に預けられる子供はかわいそう」という圧力も同じで、今の母子手帳では「そんなことはない、社会性を早くはぐくむ利点もある」とフォローされているが、それでも「24時間365時間、母親が育てなかったら育児したと言ってほしくない」「保育所に預けなければいけないような親は子供を産むな」「仕事と子供のどちらを選ぶのか。どちらかだけの二択であって、どちらも両立したいなどは子供への虐待」というような極端な意見も実際にわたしは見てきた――それも「子育てに理解のないオトコ」だけではなく、恵まれた「育児に専念できる母親」からも。中には育児に積極的に参加する「イクメン」さえも「母親の義務の放棄」のようにとらえて批判する例もある。

 このような「母親への過剰な負担要求」が、「子供を持っても負担が大きいだけ」という意識を増大させ、結局「じゃあ子供なしの人生を選ぼう」という人を増やしているのも事実である。そして、この条例案の背景に、そういう「母親への過剰な負担要求」こそが「伝統的なあり方」だというエセ科学的思考が存在するのが、最大の問題点であると言える。単に条文の一つ一つの運用上の問題などではなく、根本理念が狂っているのである。

(社会総がかりの取組)
第3条
前2条の目的および基本理念にもとづき、家庭教育の支援は、官民の区別なく、家庭、保育所、学校、企業、地域社会、行政が連携して、社会総がかりで取り組まれなければならない

 いや、そんなことはない、親への過分な負担の押しつけだなんて言いがかりだ、この第3条を見れば社会全体が支援すると言ってるじゃないか――という反論が予想される。しかし、これは巧妙な詐術である。なぜなら「育児の支援」ではなく「家庭教育の支援」だからである。つまり、育児全般をバックアップするのではなく、「親への強制的教育=洗脳」を「社会総がかり」で取り組まなければならない、と主張しているからだ。

 先の論文でもあるように、「生活保護世帯の増加や失業率の増加」が虐待と相関しているというデータも示されている。少なくともカネがすべてではないとしても、虐待を防止するための経済的支援・就業支援あるいは待機児童ゼロ化政策などについてまったく触れることなく、ただ「親心教育」のみを「総がかりで取り組」もうというのは、見当外れとしか言いようがない。

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