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京都亀岡暴走事故で3人の犯人の名前を6人分「暴い」たネットの暴走

kyoumoeさんのブログ記事で知ったのだが、京都亀岡暴走事故を起こした3人の「犯人」(運転手と二人の同乗者)の「本名」を「特定」したという情報がネットを駆け抜けていた。ただし、そこで「特定」された「犯人」の名前は6人分あった。

そこでツイッターで以下のようにつぶやいたところ、わたしには珍しくfavされることとなった。

3人の犯人の名前を「ネット」が6人分も暴いた件。少なくとも我々にはたとえ犯人であっても「社会的に抹殺する」権利はないし、ましてや無関係の人を殺人者扱いして責任取れるわけがない。 / “他人の名前を軽々しく書くな、クソ日本人どもが - …” htn.to/STE1ub

— 松永英明@ことのはさん (@kotono8) 4月 25, 2012

ネットで流された情報

上記のエントリーにしたがって実際に検索すると以下のような二つの情報がリツイート拡散されていた。個人名および画像へのリンクは伏せたが、すべての名前に重複がないことを示すため、名字の一文字目だけを残した。

RT @nobookyes: 【京都亀岡暴走事故】3人特定 ① 土〓 〓 (恐らく運転手) ② 三〓 〓〓 ③ 桑〓 〓 (京都学園○学生) RT @aurayy: 『犯人が少年なら匿名・在日なら通名で報道、被害者遺族は実名晒し上げ。犯罪者を養うために税金を使い、被害者には鐚一文使われず。』犯罪者優先・・

RT @namaewww: どこをどう見てもキムチ顔にしか見えないのですが、どうしたら良いでしょうかRT @yatokkosattoko: 無免許18才の本名きました (運転)・・・伊〓〓〓 (同乗)・・・今〓〓〓〓 (同乗)・・・山〓〓〓 (※URL省略) @TwitPicさんから

どちらのアカウントも嫌韓・嫌中アカウントであることが確認できるが、いずれにせよこの中に少なくとも3人、最大6人は「無実の罪を着せられた」人が含まれていることは間違いない。

わたしたちに犯罪者を制裁する権利はない

少なくとも我々にはたとえ犯人であっても「社会的に抹殺する」権利はない。犯罪者ではないかという容疑をかけるのは警察であり、それを立件して裁判にかけるのは検察であり、最終的に罪があるか否か、どのような罪を与えるかを決めるのは裁判所である。

たとえそれが極悪人であってもわたしたち無関係な第三者が私的に制裁してよいということは決してない。ある人物が「悪い奴」なら叩いても許されるとか、あるいは社会から排除するのが「正義」だとかいう考え方は完全に筋違いである。ただ、ワイドショーなどでよく知りもしない「犯人」もしくは「容疑者」を罵倒しているので、それを真似る人は多いようだ。

もちろん、人でなしの行為に対して憤るのは人間的な感情ではあるが、だからといって「社会的に《悪い》と認定された人間なのだから自分は叩いても非難されない」と考えて自分のストレス発散のためにつるし上げたり、あるいは「こういう悪い人間を非難しないのは擁護しているも同然だ」などと主張したりするのは完全に筋違いである。

無関係の人を殺人者扱いした責任など誰にも取れない

今の日本の社会では、「疑惑をかけられる」ということだけで社会的に抹殺されかねない。

「この人物にはこんな疑惑がある」というマイナス情報が一度流れると、ネットではそれが拡大再生産されていく。やがてそれは証拠も何もないまま伝言ゲームの中で「疑惑」ではなく「この人物はこんなことをする悪い奴だ」に変わっていく。そして、その断定による非難が積み重なる。そうなると、本人が否定しても「とぼけるな」「白々しい」「しらばっくれるな」という攻撃が集まることになる。

つまり、このネット社会の現状において、「疑惑をかける」ということだけで言葉の暴力であるということを充分に承知しなければならない。もし疑惑を表明する必要があるとしても、(1)それを公表するだけの意味・価値は本当にあるのか、(2)その疑惑を裏付ける100%の証拠は用意されているのか、(3)もしその疑惑について潔白だったとき、疑惑を訴えた人間はその被害をすべて償うだけの覚悟ができているのか、(4)その償いは具体的にどのような形で行なうのか、ということをすべて考え、その上でどうしてもやるというのであれば「これは暴力であるが、その全責任は自分が取る」という覚悟をもってなすべきである。

その際、立証責任は疑惑をかけられた側にはまったくなく、疑惑をかけた側に全責任があるということも肝に銘じなければならない。これは鉄則である。いい加減な疑惑をふっかけておいて「違うなら証明してみろ、違うことを証明しないなら認めたことになるぞ」と主張するのは、言論の暴力の最たるものといえよう。

なお、似たような言い方として「違うのだったら名誉毀損で裁判をすればいいのに、しないのは認めたからだ」というものもある。「裁判するか否か」と「事実か否か」はまったく別の事柄なのにこういう主張をして「疑惑」を拡散しようとするのもまた暴力といえる。

今回のデマ拡散者たちが何の責任も取ることなく、「誤報」について無視して発言を続けているところを見ると、これらのデマ拡散者たちも、妊婦含む子供の列に居眠りで突っ込んだ無免許運転者と何ら変わるところのない「無責任かつ凶悪な人間」だとわたしは確信する。

「真犯人を逃すくらいなら冤罪の方がマシ」論の非人間性

こういう話になるとかならず出てくるのが「真犯人を逃すくらいなら冤罪の方がマシ」という意見である。しかし、わたしはこれには絶対に与さない。むしろ「たとえ真犯人を逃すことがあったとしても、無実の人を犯人扱いしてはならない」ということを鉄則だと考える。

自分が被害者の遺族となった、と想像してみよう。もちろん、真犯人が厳しく罰せられるのが一番納得できる。しかし、である。もしそれが警察・検察の力及ばず不可能だった場合、「無実の人を無理やり犯人に仕立て上げて、その人を罰する」ことで何か満たされるだろうか。そんなことは絶対にない。むしろ、被害者を一人増やしただけのことだし、もし仮に「無実だろうと何だろうととにかく犯人を決めて罰してくれ」と願ったとしたら、自分自身が加害者になってしまう。それくらいなら「真犯人がわからず、逃げおおせる」方がまだマシである――いや、実は「無実の人を無理やり犯人に仕立て上げる」ということは「真犯人を取り逃がす」ということも含んでいるのだから、何倍も悪いということになろう。

あるいは、「冤罪の可能性があったとしても、真犯人を漏らすよりマシ」という考え方は、「自分自身が濡れ衣を着せられる」可能性を高めることにもなるし、その際に誰も助けてくれないということになる。濡れ衣だろうと何だろうと、あやしい奴は片っ端から断罪しておけば真犯人を逃しにくい、と考えるような人は、自分自身がその「あやしい奴」だと決めつけられる可能性についての想像力が根底から欠如している。

考えてもみるがいい。ネットで流れているような間接的な情報だけから、多くの人が「こいつらが犯人だ」という情報をリツイートして拡散してしまうのである。自分だけは絶対にそういう被害にあうわけがない、という根拠なき自信はどこから来るのだろうか。

悪いことをしていなければそういう目には遭わない? じゃあ今回の「3人の犯人の名前が6人分流された」というのはどういうことだ?

わたしたちは常に、「今自分が持っている情報だけで誰かを断罪できるのか」「今流れてきた情報を拡散することについて自分は本当に責任が持てるのか」「自分には断罪する権利があるのか、その責任は自覚しているのか」ということを考え続けなければならない。

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