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レッドブルとアップル「直訳CM」の致命的欠陥(「授ける」と「させる」の言語機能の解析)

最近、海外商品について直訳のメッセージで宣伝するCMがいくつか見受けられるが、それを見聞きするたびに気持ち悪さを感じていた。その筆頭がアップルとレッドブルである。

その気持ち悪さについて、日本語学的に分析すると非常に興味深いことがわかる。それはこの二つのCMの言葉が、英語の単語をそのまま日本語に置き換えているがゆえに意味が変わってしまっているということである。特に「授ける」と「させる」という日本語の「機能」に無頓着であることが致命的な欠陥となっている。

前回のブログ記事(木村カエラCMのエセ関西弁が気持ち悪い理由[絵文録ことのは]2012/02/29)に引き続き、今回もCMの言葉を解析してみた。

レッドブルは購入者より目上である

「レッドブル、翼を授ける」というキャッチコピーで知られるレッドブルは、オーストリア企業の商品である。このキャッチコピーは非常にわかりやすいので、最初に解析するとしよう。

もちろんこれは、英語のキャッチコピー/スローガンである "Red Bull gives you wings" の直訳である。この英文自体には特に問題はない。問題は、その日本語訳である。「レッドブル、翼を授ける」とそのまま直訳することによって違和感が生まれている。

日本語を母語とする人であれば、この言葉を聞いて何となく収まりが悪いと感じるだろう。「そのまま訳しているのだからいいじゃないか」という人は、ちょっと日本語に対する敏感さが足りないといえる。

なぜなら、日本語の「授ける」という言葉には、「上の者が下の者に一方的に恩恵を授ける」場合にのみ用いられるという機能があるからだ。英語の "give" には上下関係など想定されていないが、日本語の「授ける」や「与える」には明確に上下関係が存在する。この「機能の違い」は通常ははっきりとは自覚されていなくても、母語話者であれば無意識のうちに使いこなしている。

たとえば、平社員が「社長に重要な地位を授けられましたので、がんばります」というのは違和感のない日本語である。「与える」でも同様で、「今朝、ペットにえさを与えてきました」「植物に水と肥料を与える」「赤ちゃんには母乳を与えています」はもちろん可である。いずれも上から下である(自分は犬や植物や赤ちゃんより上の立場として恩恵を与える立場にあり、社長は平社員より明らかに上である)。しかし、日本人の会社員がもし「社長にペンを授けました」と言って平然としているなら、その人は危なっかしくて外には出せない。少なくともこの言葉を聞いた人は、日本語が不自由な人だなあと思うか、「お前は何様だ、偉そうに」と思うだろう。それが日本語母語話者の当たり前の感覚である。それは「授ける」「与える」という言葉の機能には「上から下へ一方的に」という矢印が必ずついてまわっているからなのである。

「授ける」「賜る」「与える」のは絶対に「下から上」ではない。「対等」でもない(「同僚が弁当を与えてくれました」と発言するなら、その同僚にまったく頭があがらないという背景が想定される。つまり、対等ではありえない)。必ず「上から下」なのだ。

受け手からの視点では「授かる」となる。これも与える側が上、授かる側が下である。「子供を授かった」のも「天から授かった」のであって、逆ではあり得ない。

とすると、「レッドブル、翼を授ける」という言葉には「レッドブル、貴様は何様のつもりだ?」という反感、あるいはレッドブルが強制的・強圧的だという印象を抱いても当然ということになる。

もちろん、「レッドブルが授ける」というのにはもう一つ日本語らしくない要素があって、それはレッドブルという無生物が動作主になるという問題である。無生物は動作の主体になりえないのが日本語だ。もちろん、翻訳口調でそういう表現は現在、たしかに存在する。しかし、それも「翻訳口調」という違和感を伴っての上である。

日本語らしく訳し直せば、まず「レッドブルを飲めば、翼が生えたように感じる」という表現になるだろう。意味的にはこういうことのはずである。ただ、これは回りくどい。レッドブルで翼が生えるというのは、それだけ上昇気分になるとか、元気になるとかいった意味の比喩と考えてよいはずだ。また、レッドブルはエネルギーが足りないときに飲みたくなるだろう。とすれば、同じ意味を伝えるにしても「レッドブルでもうひとっ飛び」「レッドブルならまだ飛べる!」「羽根が生えるよレッドブル」あたりが日本語らしいキャッチフレーズと感じられるはずである(※コピーライターならもう少し気の利いた表現もできるだろうが、ここではひとまず日本語的か否かという観点で見ていただきたい)。

「飲めばもっと飛べる。レッドブル」と「レッドブル、翼を授ける」のどちらが日本語母語話者にとってすんなり理解できるか、言い換えれば「どちらが日本語か」、それはもはや言うまでもないだろう。もちろん違和感を残すことによって印象を強める手法があることは理解しているが、それにしても現行の直訳調では違和感が強すぎると思われる。

このような言葉遣いをそのままにするというのは、言い換えれば日本市場の人たちの心に対して無頓着だということにもなる。自分たちの言いたいことだけを表現して顧客のことを考えていないプロモーションなのではないか、という気さえしてしまう。

iPadは利用者に命令を下し、振り回す

同様に直訳口調のナレーションが日本語になっていないCMとして耳障りなのがアップルのCMだ。現在テレビで流れているiPadのCMの「Love」編ナレーションは以下のとおりである(以下、アップル公式サイトiPad TVCMのページの動画を参照して筆者が書き起こした)。

ある人にとって、それは生涯にわたる情熱。
ある人には、見つけたばかりの楽しみ。
わたしたちにはみな、心を熱くする何かがある。
それは、あなたを朝早く目覚めさせ、
ときに夜更かしをさせる。
大好きなことにどこまでも夢中になれる、
今までにはなかったこんな形で。

このセリフを聞いた瞬間に、外国語からの翻訳だと直感的にわかるのが日本語母語話者である。もちろん、その違和感に対してあまり不快に思わない人もいるだろうが、言語的に敏感な人なら、これが厳密な意味で「日本語になっていない」ことが感じ取れるはずである。

まず第1点。このCMでは「それ」が主語になっている。

「それ」は「iPad」そのものなのか、あるいは「心を熱くする何か」なのかは明言されない。いや、それを重ね合わせさせるのがこのCMの原文英語ナレーションの意図だろう。その意図はくみ取ることができるし、そのこと自体は問題ない。

だがしかし。英語の「It」を「それ」と訳していいのは学校英語・受験英語だけである。日本語の「それ」は、「これ」(近称)「それ」(中称)「あれ」(遠称)の中の「それ」であって、本来、「人間以外のものを指す三人称単数の代名詞」ではない。明治以後の翻訳語として流用されたため、「三人称単数代名詞」のように「それ」を使うと違和感が生じる。

日本語の「それ」(そこ、その、そいつ……)とは何か。いくつかの機能がある。一つは、単純に自分から遠くて相手に近いところに存在しているものを指す。例=「その鉛筆を取ってくれ」。

二つめは、話し相手がよく知っているが、自分はよく知らなかった話題を指す。例=A「昨日、食べた店がまたおいしくてねえ」B「その店はどこにあるんですか?」。これも、話題の内容が「自分から遠くて相手に近い」という意味では、一つめを抽象化したものと受け取れる。

三つめは、文脈指示の「それ」である。よく入試の国語の問題で「“それ”は何を指すか。二十字以内で抜き出せ」というような問いがあるが、そこで問われているのがこの「それ」である。論述文の場合、「それ」で指示される内容は、著者がちょっと距離をおいて客観的に(突き放した感じで)指し示すものを意味している。

これらの基本的な機能を見るとき、「それ」と「It」はまったく機能の異なる言葉だということがわかってくる。少なくとも、話し手から距離感のあるニュアンスが生まれてしまう。それが、あのCMの「それ」なのである。(※読者の皆さまへの宿題。この段落の冒頭の「これらの」と、最後の「それが」「あのCM」に注目し、書き手からの距離感を考察すべし)

また、「それ」は「聞き手も存在だけは知っている」ものでなければならない。たとえ電話口で「予定表が壁にかけてあるでしょ。そこに何て書いてある?」と言うときも、自分から見えなくても予定表があるということは知っている。知らない店について「その店」と言うときは、相手がその店の話題をすでに振っていなければならない。つまり、今まで何の話題もないところにいきなり「それ」を持ち出すのは、日本語としておかしいのである。だから、CMの冒頭で「ある人にとって、それは生涯にわたる情熱。」と切り出されると、日本語ではCMが始まる前に何らかのやりとりがあって、それがカットされているかのような気持ち悪さが生じる。決して「それ」を「無生物の三人称単数代名詞」として受け取ることはできないのだ(例外は、隠語として例のモノを「アレ」とか「ナニ」とか言う場合だが、その場合でも「ソレ」というのはおかしい。遠称もしくは不定称だから隠語になりえるのである)。

さて、このCMの中心、すなわち「それ」の正体は、「わたしたちにはみな、心を熱くする何かがある」の「何か」だと読み取れる(そして、それを実現してくれるのがiPadなんです、と言いたいのだろう、ということも含めて)。これは、原文は多分somethingを使った構文なんだな、と容易に想像される直訳だが、そこはひとまずよしとしよう。ここでは、「熱中の対象となるもの」をこのCMで「それ」と呼んでいるという事実を確認しておけばよい。だが、問題は、「それ」と言ってしまうがゆえに、何か突き放した感じが生じてしまうことである。つまり、ナレーターが「みなさん各自が何に興味を持ってるかは知りませんし、知りたくもありませんが、それが何であれ、iPadでできますよ」と言っているのか、さもなくば「みなさん、熱中してるとかいっても、実際のところはそんなにはまってるわけじゃないですよね」という感じになってしまう。この突き放した感じのために、さらに違和感が生じている。

このCMの違和感の第2点は、「させる」という使役形にある。「それは、あなたを朝早く目覚めさせ、ときに夜更かしをさせる」。無生物を動作主として語るのが日本語として不自然であることはレッドブルのときに指摘したとおりだが、レッドブルの「授ける」に対して、こちらは「目覚めさせる」「夜更かしをさせる」という言葉が使われている。

日本語における使役形の機能は、先ほど見た「授ける」と似ている側面がある。つまり、「AさんがBさんにCさせる」とき、決定権・主導権を握っているのは絶対にAさんであり、BさんはAさんからCを強要される立場にある。先生が生徒に勉強させる。親が子供に手伝いをさせる。息子に親の介護をさせる。「させる」方が絶対に上位であって決定権・主導権を握っており、「させられる」側が絶対に下位にある。

また、無生物主語を避けようと思って受身形にしようとすると別の問題が発生する。日本語の受身形(れる/られる)には、被害意識を表わす機能があるからである。「子供に泣かれた(ので仕方なく買ってやった)」「雨に降られた」などを見ればうなずけるはずだ。さらにこれが使役受身になると、相手から強要されてイヤイヤやらされた、という思いを伝える機能がある。「昨日は終電まで残業させられたよ」「あの人にはほとほと苦労させられたものです」など。だから「朝早く目覚めさせられたり、ときに夜更かしさせられたりする」というと、もはや子育てに翻弄されている親の愚痴にしかならない。もちろん、英語の受け身にはこういった機能はない。

つまり、日本語で「それ」がわたしに「~させる」と言った場合、どうしても「それ」に振り回されている感が出てしまうのである。使役には厳密には「強制してさせる」場合と「許可・容認」(「子供には行きたい学校へ行かせました」など)のパターンがあるが、いずれにしても使役の主体の方に決定権があることには違いがない。

「それは、あなたを朝早く目覚めさせ、ときに夜更かしをさせる」――前後の文脈をひとまず切り離して日本語としてこの文を解釈すると、「それ」が命じて、早朝出勤から深夜の残業まで散々強要されるイメージになってしまう。ついつい夢中になりすぎて気がついたら夜更かししてしまっていたり、遠足の日の朝は目覚ましがなくてもワクワクした気持ちで目が覚める、というようなイメージには絶対になりえないのだ。

英語の使役形でmakeは強要、letは放任のニュアンスとなり、おそらくはこの原文もletなのだろうが、この翻訳ではまったくその感覚が伝わらず、台無しになってしまっている。

このCMの「伝えたいこと」を本当に伝えようと思えば、わたしならこれくらい砕いて訳す。

誰だって何かしら夢中になれるものがあります。
これまでの人生でずっと熱中してきたもの。
最近見つけた新しいもの。
そのためだったら早起きも苦にならないし、
時間が経つのを忘れてつい夜更かししてしまったり。
好きなことには、どこまでも夢中になってしまいますね。
それを今までにない新しいスタイルで楽しんでみませんか。iPad

ちなみに、ここで使った「その」「それ」は、そこまで述べてきた内容を指している文脈指示の用法である。また、「~てしまう」を使うことで、ハマっている感じを表現している(主語と目的語が逆転しているが、こちらの方がLetによる使役のニュアンスに近いはずである)。

まとめ

今回取り上げた二つのCMと同じような趣旨を伝えるにしても、たとえばマクドナルドのCM(ブレックファストコンビ「スキップ」編)は日本向けとして非常によくできていると思う。「あ、部長、おはようございます。今、スキップしてませんでした?」「してないよ……」「してましたよ(笑)」「してませんッ」――部長と部下の会話であるが、「ブレックファストコンビを買えば、ふだんは部下に厳しい部長でもスキップしてしまうほど、ついつい楽しくなってしまう」というメッセージが明解に伝わってくるし、部長と部下の普段の関係性も何となく感じ取れる。これを「ブレックファストコンビ。それは気むずかしい部長にスキップさせる」とナレーションしたら台無しである。

言語が違えば、その背景にある考え方も違う。それぞれの表現にはそれぞれの機能があり、それは外国語と一対一対応していない。形の上では置き換えができたとしても、含意や背景を含む「意味」は必ずしも一致しない。それは、どちらの言語が偉いとか優れているとか正しいとか進んでいるとかいう話ではなく、単に「違う」ということである。

その違いを認識することなく、英文をそのまま日本語に直訳したとき、言いたいことそのものは一応伝わるとしても、それ以外の予期せぬ情報が発生する。そう、「レッドブルは購入者より目上である」「iPadで趣味を楽しもうとすると、利用者の意思を超えて機械に振り回される」といった言外の意味が生じてしまうのである。これが二つの直訳CMの致命的欠陥である。

日本市場に進出する際には、自動翻訳でできるレベルの置き換えではなく、ネイティブが違和感のない表現にまでかみ砕いて訳すべきだ。特に、「話し手と聞き手の上下関係」が表現に影響しない英語から、それなしでは成り立たない日本語に訳すときには注意が必要である(なお、ここで「日本はタテ社会、英米はヨコ社会」というような安易な社会論に結びつけないようにもお願いしたい。単に言語の機能の違いである)。

英語をはじめとする外国語を勉強する際にも、この「機能の違い」は自覚する必要がある。むしろ、外国語に上達したければ、まずは日本語のこのような機能の違い、ニュアンスの違いに敏感になることだ。日本語にも鈍感なのに英語だけ得意、というのは、日本語母語話者にはとうてい無理な話である。日本語で無意識に前提とされていることが英語表現には含まれないので、それをすべて発話しなければならない――という「ハイコンテクスト言語とローコンテクスト言語の違い」について意識化できれば、おそらく日本語も外国語も上達することだろう。

少なくとも、このような「日本語になっていない直訳ナレーション」に対して、その違和感をかっこよさと勘違いしないことが重要である。

追記

少なくとも「上から目線」であるという受け手側の感覚は共有されているようである。ただ、英語原文には「絶対的で強力な切り札なんだ、という感じ」はなく、日本語訳はひねりもなく直訳しただけなので、意図的な表現であるとはわたしには思えない。

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