「素人財務相」が介入水準に言及し、秘密のベールに包まれた介入の「手の内」を明かした軽率な発言に対して、野党から「今後の介入の政策効果を失わせる」とか、市場関係者からは「市場に誤ったメッセージを伝えた」などの批判が相次いでいる。
確かに政策当局が為替の特定の水準に言及するのはタブーである。しかし、「次に介入した時には(政府の介入を)考慮して、マーケットは動いてくる。怖いことだ」、「今後の介入効果が失われる」という類の批判は、「批判のための批判」のでしかない。
中には、後に「イングランド銀行を打ち負かした男」として有名になったジョージ・ソロス率いるヘッジ・ファンドが1992年にポンド売りを仕掛け、イングランド銀行を打ちまかせたことを引合いに出して、今回の「素人財務相」の軽率発言を批判する意見も見受けられる。
しかし、こうした批判は、ジョージ・ソロスがイングランド銀行を打ち負かした時とは状況は全く違うことを無視したものである。
ジョージ・ソロスがポンド売りを仕掛けた時と、今回の円高とは根本的に2つの違いがある。
まず、当時の英国は、将来の欧州共通通貨ユーロ導入に向け、欧州為替相場メカニズム (ERM) に従い、ポンドと欧州他国通貨との相場を一定範囲に固定する政策を取っていたことである。一方、現在の日本は完全な変動相場制を採用しており、他国通貨に対して円を一定の範囲で固定する政策はとっていない。要するに、イングランド銀行がユーロ導入を前提にした「守らなくてはならない水準」を持っていたのに対して、日銀は「守るべく水準」を持っていない「お気楽な立場に」いる。
皮肉なもので、キャメロン首相が昨年のEU首脳会議で「彼らだけでしたいようにやらせる方がよい。幸運を祈っている」という台詞を残して、ユーロ圏諸国と一線を画すことが出来たのも、ジョージ・ソロスが1992年にイングランド銀行を打ち負かしたからである。英国がユーロに参加せずに済み(実態は参加出来ず)、現在でも独立した財政・金融政策を打ち出せる立場を維持出来ているのは、ジョージ・ソロスのお陰でもある。
もう一つの大きな違いは、中央銀行の行動が眞逆であることである。ジョージ・ソロスが行ったのは「ポンド売り」であり、それに立ち向かうためにイングランド銀行は「自国通貨を買い、外貨を売る」という行動を強いられた。それに対して、日銀が行っている行動は「外貨買い、自国通貨売り」である。中央銀行が売れる「外貨」は「持っている(調達出来る)外貨量」が限界であるが、自国通貨をいくらでも刷ることの出来る中央銀行にとって「自国通貨売り」は、「弾が尽きることのないオペレーション」である。ジョージ・ソロスがイングランド銀行を打ち負かすことが出来たのは、中央銀行が「自国通貨買い、外貨売り」に回らなければならなかったからである。
要するに、ジョージ・ソロスがイングランド銀行を打ち負かした例を挙げての「素人財務相批判」は、状況の違いを全く無視した「的外れな批判」で、「素人財務相に誤ったメッセージを伝えかねない批判」でもある。
「素人財務相」が為替介入の具体的な水準を口にしたとしても、為替市場に「直ちに」大きな影響を及ぼすものではない。「今後の介入効果を失わせる」という尤もらしい批判もあるが、もともと殆ど介入効果が出ていないのだから大したことはない。
問題は、介入の具体的な水準を口にすることの意味を、財務相が全く理解をしていないということである。
答弁を行った「素人財務相」本人も、「存在感のない官房長官」も、揃って「質問に立った自民党の西村氏が示したボードに書いてあるのを説明しただけで、水準を言ったわけでない。特定水準を念頭において介入を実施した訳ではないと」必死に弁解している。こうした弁解をするところが「素人財務相」「素人内閣」と批判される所以で、恥の上塗りでしかない。
「介入の水準」や「特定の水準」でなかろうと、野党議員が示したボードに為替水準が書いてあろうがなかろうが、財務相が具体的な為替水準を口にすることの意味を理解していたら、具体的な数字を口にすることはなかった筈である。
具体的な介入水準に言及することで「手の内を明かした」「将来の介入効果を失わせた」ことが問題なのではなく、具体的な為替の水準に言及することがどの様な意味を持つのかを、財務相が理解していないことが大きな問題なのである。
為替介入の「手の内を明かした」ことよりも、「素人財務相」の「素人ぶりを露呈した」ことの方が日本にとって大きな損失である。こうした基本的なことを理解出来ない「素人財務相」が居座り続ける限り、日本は国際社会から馬鹿にされ続けるだろう。
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ストラテジストとして金融市場で20年以上の実戦経験を持つ