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路上ライブを勝算あるビジネスにする方法

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オンライン上で“路上ライブ”できる場を提供したい。その事業を始めたのは、8歳で両親を失い、生きるために路上ライブを続けたという青年だった。作詞家の秋元康やDeNA創業者の南場智子が惚れ込んだというSHOWROOM社長・前田裕二の素顔に、田原総一朗が迫った――。



■家がなく、通えなかった小学校

【田原】前田さんの本、興味深く読みました。なかなか壮絶な半生ですね。

【前田】物心ついたときから父はいなくて、8歳で母が亡くなりました。そこから半年ぐらい家がなく、友達の家を泊まり歩いたり、転々としていました。いまとなればいい経験ですけど。

【田原】小学校は行ってなかったの?

【前田】小学校2年生はほぼ丸々行ってないです。小2は九九を習う時期なので、僕はいまでも九九が苦手。それでものちに投資銀行に勤めるので、九九ができなくてもそこまで問題ないのかも(笑)。

【田原】でも、ずっとそうした生活は続かないでしょう?

【前田】そのあと10歳年の離れた兄貴と一緒に親戚の家に引き取られました。ただ、多感な時期だったということもあり、小4の頃にグレてしまいました。しばらくやんちゃな日々が続くのですが、次第に、とにかく「自分でお金を稼ぎたい」という欲求が強く出てきました。この環境から抜け出すには自分で稼いで食べていけるようになるしかない。そう思って、バイトを探し始めたんです。

【田原】小学生ができるバイトなんてあったんですか。

【前田】ないです。最初に近所の駄菓子屋に行って時給400円で働かせてほしいと頼んだら、「キミにその時給を払うにはその時給をまかなえるくらいにお菓子を売らなければならない。うちがそんなに売れているように見えるか」と断られました。ならば、物がもっと安定して売れていそうなコンビニならどうかと頼みに行ったら、こちらも門前払い。ほかにもいろいろな稼ぎ方を試しているうちに、1つ、自分にとってベストな方法を見つけたんです。

■小6から葛飾で、ギターの弾き語り

【田原】本には、小6からギターの弾き語りを始めたと書いてあった。


SHOWROOM社長 前田裕二氏

【前田】まさに。その方法がギターの弾き語りだったんです。親戚のおばさんの息子さんが僕にギターをくれました。それをきっかけに、練習して歌を歌えば堂々とお金をもらえるんじゃないかと思って、葛飾の路上に立ち始めました。でも、最初はまったく立ち止まってもらえなかった。完全に戦略ミスですね。

【田原】どんな戦略だったのですか。

【前田】僕がどれだけゆずの歌をうまく歌っても、ゆずよりうまく歌えない。それならオリジナル曲を歌ったほうがお金をもらえると思って、自分で作曲して歌いました。ところが、これが間違いでした。通行人が立ち止まるのは、自分が好きな曲や知っている曲が流れているとき。途中からそのことに気づいて、カバー曲に切り替えました。あと気づいたのは、お客さんはパフォーマンスに対してではなく、コミュニケーションで生まれるある種の「絆」にお金を払ってくれているということ。最初はそのことがわかっていなかった。

【田原】それは客商売の本質かもしれない。小学生でそこに気づくなんてすごいね。

【前田】たとえば、ある女性のお客さんから、松田聖子の「白いパラソル」をリクエストされました。僕は知らなかったから、「練習するから1週間後にまた来て」と言ったら、本当に来てくれた。そこから仲良くなって、最終的にはお客さんに手帳を開いてもらって「来週の何曜日、ここに来て」と僕の予定を書き込んでもらうまでになった。ファンになってくれた常連客から1万円をもらったこともあります。

【田原】弾き語りは学校に行きながらやったの?

【前田】はい。学校が終わって、通勤客が帰ってくる時間帯に合わせて3~4時間くらいやっていました。あとはスナックの前も多かったかな。酔っぱらっていい気分になった人がたくさんお金をくれるので。

【田原】将来、歌で食べていこうと思っていた?

【前田】いえ、弾き語りは中2でやめて、中3からとび職のバイトを始めました。僕は向いていたみたいで、親方から「中学を卒業したらうちの社員になれ」と誘われて、それで食べていこうかなと。生まれて初めての内定です(笑)。

■いい大学に行けば、兄貴の自慢になる

【田原】でも就職せずに高校に行った。


田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【前田】兄貴やギターをくれた人が「高校は行っておけ」というので進学しました。深川高校という都立の学校だったので、学費は年間30万円ほど。ファミレスの「ジョナサン」でバイトしていたので、なんとかなる額でした。

【田原】大学は早稲田の政経ですね。どうして早稲田だったんですか。

【前田】子どものころやんちゃをして兄貴を泣かせていたので、兄貴を喜ばせることが僕のモチベーションの1つになっていました。もともと大学に進学するつもりはなかったのですが、高3のときに「頭のいい大学に行けば兄貴の自慢になるかな」と思い直して受験することに。頭のいい大学と言っても、そこから5教科をやる余裕はない。私立で偏差値の高い大学と言えば早慶ですが、直感的に自分に合うのは早稲田かなと思って、選びました。

【田原】就職活動でディー・エヌ・エー(DeNA)を受けて南場智子さんと会った。でも、結局は投資銀行のUBS証券に行く。どうしてですか。

【前田】将来は起業するつもりだったので、自分が成長できることを一番に考えました。方向性は2つ。1つは成長中のベンチャー企業に入って、新入社員にも多くの仕事を割り当てざるをえない環境に身を置くこと。もう1つは投資銀行に入って、パフォーマンスが悪ければクビになる緊張感の中で働くこと。自分の成長という意味では、どちらでもよかったと思います。

【田原】南場さんは前田さんを気に入ったんでしょ。ディー・エヌ・エーのほうがチャンスがありそうだけど。

【前田】理由は2つあります。1つは、UBSのほうが給料が高かったから。母が亡くなったとき、高3だった兄貴は、僕を養うために進学をあきらめました。僕も一緒にハローワークに行って、兄貴がファイルの一番上にあった求人に応募したことはいまでも覚えてます。こういうことを言うと兄貴に怒られるので話していませんが、将来は兄貴にお金を渡しても大丈夫なくらい稼ぎたかった。だから投資銀行を選びました。

【田原】もう1つの理由は?

【前田】確かにディー・エヌ・エーも魅力的だったのですが、UBS証券で、「この人を超えたい」という人に出会ってしまったんです。宇田川宙さんという方なのですが、圧倒的な成果を出して20代で部長職になった人。この人の能力を近くで吸収したいという思いを抑えきれませんでした。

【田原】投資銀行時代は毎朝4時半に会社に行ってがむしゃらに働いていたそうですね。いまはモーレツ社員は流行らない。どうしてそんなに一生懸命に働いたんですか。

【前田】僕は両親がいなかったし、貧乏で塾も行けなかった。でも、自分の身に降りかかったことは、けっして不幸ではなくて、高みにのぼるために必要なことだったと思いたい。逆に言うと、過去のネガティブな環境要因を正当化するためには、なんとしてでも高みにのぼらなくてはいけなかった。それはいまでも僕の軸になっています。

【田原】UBSで成果を出して、ニューヨークの支社勤めになる。しかし、25歳で退職。どうしてですか。

【前田】30歳までに社内で目指していた目標を幸運にも25歳で達成しました。起業するにはいいタイミングでした。もう1つ、僕にギターをくれた親戚のお兄ちゃんが亡くなったことが大きかった。投資銀行の仕事は価値の創出というよりも、価値の移動をしている、という感覚でした。身近なひとの死をきっかけにして、もっと代替不可能性の高い、世界の幸せの総量を増やすような仕事をしたいという思いが強くなったんです。

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