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普天間基地建設にまつわるデマ

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普天間基地の移り変わりでよく見られる写真がこちら

普天間よくある写真

全く何もない土地に米海兵隊基地が建設され、基地周辺に米軍相手の商売をする人たちが集まり町を形成するようになったが、近くの小学校が建てられ、危険だからと言う理由で過去に二度の移転計画が持ち上がったが、左翼の反対派により移転断念した。小学生をとって危険なのは米軍でなく左翼。
(とあるツイートより)

百田尚樹氏の「普天間飛行場は田んぼの真ん中にあり、そこに商売目的で人が住みだした」という発言がデマであることは新聞でも報道され、国会でも首相自らがデマだと認めたにもかかわらず、ことあるごとに再燃します。上のツイートも結構RTされて広まってるようです

いい加減学習して欲しいのですが、前も書いたように、歴史修正主義者達は真相などどうでもよく、誹謗中傷するのが目的なのですから、いっこうにこの手のデマ拡散をやめようとしません。

私もコメント欄で何回も繰り返してお答えするのはごめんなので、このエントリーでまとめておきます

では、まず新聞報道から

<琉球新報>
●百田氏発言「普天間飛行場、元は田んぼ」「地主年収、何千万円」を検証する 2015年6月27日
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/15850
(※リンク先には図表がありますのでそちらもご覧ください。赤字は私です)

百田尚樹氏が「田んぼで、何もなかった」とする米軍普天間飛行場が建設された場所は沖縄戦の前、宜野湾村の集落があった。宜野湾市史によると、1925年は現在の飛行場に10の字があり、9077人が住んでいた。宜野湾や神山、新城は住居が集まった集落がほぼ飛行場内にあり、大山などは飛行場敷地に隣接する形で住宅があった。

 最も大きかった宜野湾は村役場や宜野湾国民学校、南北には宜野湾並松と呼ばれた街道が走り、生活の中心地だった。

 飛行場は、まだ沖縄戦が終結していない45年6月、住民が収容所に入っているうちに、米軍が土地を占領して建設を始めた。住民は10月以降に順次、帰村が許されたが、多くの地域は元の集落に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。

 市立博物館の担当者は百田氏の発言に「人々が戦争で追い出され、何もなくなるまでの過程が抜け落ちている」として認識不足を指摘した。

■地主の年収 何千万円→100万円未満が半数超

 百田尚樹氏は「基地の地主はみんな年収何千万円」と発言した。しかし、地主の75%は200万円未満の軍用地料しか得ておらず、実態は百田氏の発言した内容と大きくかけ離れている。

 沖縄防衛局が発表した2011年度の軍用地料の支払額別所有者数(米軍・自衛隊基地)によると、地主4万3025人のうち100万円未満の地主が全体の54・2%に当たる2万3339人で最も多い。

 次いで100万円以上~200万円未満が8969人で20・8%を占め、200万円未満の割合が75%にのぼった。

 500万円以上は3378人で7・9%だった。

 軍用地料は国が市町村含む地主と賃貸借契約を結び、米軍と自衛隊に土地を提供する。地主に支払われる賃貸料は自衛隊基地を含み11年度は918億円だった。

<沖縄タイムス>
●普天間飛行場の成り立ち 戦前は宜野湾村の中心地
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/57316

宜野湾市史によると、沖縄戦の前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、1万3635人が住んでいた。そのうち、普天間飛行場は宜野湾の中心、14字にまたがる場所に建設された。14字では8880人が生活していた。

 45年の沖縄戦で住民の古里は奪われた。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を開始。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた普天間飛行場周辺に住まわざるをえなかった。

 住民の先祖が眠る墓や御願所は今も基地の中にあり、入るには米軍の許可が必要になる。

 2015年6月に自民党若手議員らの勉強会で、作家の百田尚樹氏は普天間飛行場を「もともとは田んぼの中にあり、周りは何もなかった」などと事実とかけ離れた発言をし、非難を浴びた。
 古里を奪われた住民が基地の周りに住まわされたのが実情だ。

沖縄県HPにもあります。そこから抜粋してくださったツイートがこちら

というわけで、人々が暮らす集落がちゃんとあったのです。

では実際に戦場になる前の宜野湾市の航空写真をこちらのツイートでどうぞ

これを見れば「全く何もない土地だった」「田んぼの真ん中だった」は事実ではないことが一目瞭然ですね

この写真の三ヶ月後、地上戦の舞台になった宜野湾市は焼け野原になりました。同時にそこに本土を攻撃するための基地(現・普天間基地)が建設され始め(1945年4月)、二ヶ月後の6月15日に完成します(後にもっと拡張されます)。

そのとき既に住民は収容所にいたのでから、その時点の航空写真が「何もない」状態なのは当たり前です。それを元々人が住んでいなかったか、田んぼばかりだったかのように言うのは、事実の歪曲です。

同年8月に日本は敗戦、10月に宜野湾の住民は収容所から解放されます。

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