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長谷部恭男教授の「立憲主義」は、集団的自衛権の違憲性を説明しない

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長谷部恭男教授については、以前にもブログでも書かせていただいた。http://agora-web.jp/archives/2027653.html だが、「立憲」民主党が衆議院選挙で「躍進」し、「立憲主義」という硬派な概念が再評価されている今、あらためて長谷部教授の著作を読み直してみることには、意味があるかもしれない。

 言うまでもなく、長谷部教授は、2015年に衆議院憲法調査会で「安保法制は違憲だ」という意見を述べて有名になった憲法学者である。憲法調査会を取り仕切っていた自民党の船田元議員は、長谷部教授が特定秘密保護法案などに賛成してくれていたので油断した、などと述懐した。しかしそれは長谷部教授のような超一流の学者に対して失礼な態度だっただろう。長谷部教授は、長きにわたり、集団的自衛権を違憲とする論者であった。

 現役憲法学者の最高峰に位置する長谷部教授の「違憲」発言は、民主党議員らを歓喜させ、「違憲法案廃止」の運動を大いに盛り上げた。しかしその結果として、船田議員が、役職を外されただけではない。民進党は、自民党に対抗し得る外交安全保障政策を打ち出せなくなった。そして、2017年に、分裂せざるを得なくなった。長谷部教授が国政に放った影響力の甚大さには、あらためて驚嘆せざるを得ない。

 長谷部教授は、『憲法と平和を問い直す』(2004年)で、護憲派の立場を維持しつつ、絶対平和主義=自衛隊違憲論の憲法学界の同僚を批判した。東大法学部憲法学のエース・長谷部教授の自衛隊合憲説は、当時の憲法学に衝撃を与えた。しかし、2017年の今日、憲法学者が口をそろえて「自衛隊は昔から合憲なので改憲の必要はない」という立場で、「アベ政治を許さない」ために大同団結できているのは、10年以上前に長谷部教授が身を挺して打っておいてくれた布石のおかげだ。

 拙著『ほんとうの憲法』の書評を読売新聞で掲載してくださった三浦瑠璃氏は、安保法制の前の一時期に憲法学者が政府寄りの立場をとったことについてふれていた。http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20170828-OYT8T50024.html これは長谷部教授のことであろう。ただし、当時の長谷部教授には、むしろ孤高のイメージがあった。

 「安保法制は違憲だ」という発言で、俗にいう長谷部教授の「失地回復」が果たされた。発言後、長谷部教授は、2015年10月に全国憲法研究会代表に就任し、さらに2016年10月には日本公法学会理事長にも就任して、憲法学者が集う二つの学会の長を同時に務めるようになった。今や長谷部教授が自信満々で「国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです」と述べるのは、裏付けのない行動ではない。

 このような背景を持つ長谷部教授の集団的自衛権の違憲論は、「立憲主義」によって、どのようにして説明されるのか。「立憲主義」の概念をかかげて憲法の平和主義を説明したことによって、朝日新聞や野党勢力をはじめとして、国政にも甚大な影響を与えた長谷部教授は、果たしてどのように「立憲主義」を駆使して、自衛隊は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、と論証したのか。

 不明である。

 なぜなら、長谷部教授は、立憲主義と集団的自衛権を、結び付けていないからである。

 長谷部教授は丁寧に立憲主義の観点から、自衛隊の合憲性を導き出す議論を展開した。それでは集団的自衛権はどうか。実は、長谷部教授は、立憲主義の観点からは、集団的自衛権の違憲性を、全く説明しない。集団的自衛権違憲論は、長谷部教授の「立憲主義」とは、実は、関係がない。長谷部教授の議論において、立憲主義と自衛隊の合憲性は、結びついている。しかし、立憲主義と集団的自衛権の違憲性は、結びついていない。

 長谷部教授によれば、立憲主義は、「公」と「私」を区分し、「公」が「私」に介入しないようにすることから、生まれる。価値規範が多様なリベラル・デモクラシー=立憲主義体制においては、「私」の意見の内容を、「公」が決めることができない。そこで「公」による「私」の領域への介入を不当なものとして禁止するのが、立憲主義の本質である。「公」が担当するのは、社会を維持するのに必要な「調整」問題だとされる。

「立憲主義は、大雑把にいえば、憲法を通じて国家を設立すると同時に、その権限を限定するという考え方です。限定することがなぜ必要かと言えば、多様な世界観を抱く人々の公平な共存を可能にするために、公私を区分し、国家の活動領域を公のことがらに限定するためだと言うことができます。」(長谷部恭男『法とは何か』101頁)

長谷部教授は、絶対平和主義にもとづく自衛隊違憲論を排する。なぜなら、絶対平和主義が一つの特定の価値観を他人に押し付ける行為だからだという。そこで「私」の領域の多様性を守るために、最低限の自衛権の行使が認められる。これが、長谷部教授が説く立憲主義的な平和主義であり、護憲派の自衛隊合憲論である。

 だがそこからどうやって集団的自衛権の違憲性が導き出されるのか?集団的自衛権を合憲と考えると、「公」による「私」の侵食が生まれ、立憲主義が崩されるということになるのか?

 長谷部教授は、立憲主義を駆使して、集団的自衛権の違憲性を説明することはしない。むしろ突然、国家の「合理的な自己拘束」(『憲法と平和を問い直す』163頁)が集団的自衛権違憲論である、と話を変えてしまう。そして一度自らを拘束する規則を作ったのだから、それを守っていかなければならない、という「法的安定性」に話を持っていく。「アイスクリームを食べる権利は誰にもあるが、自分は健康のことを考えて食べないことにするというのが背理でないのと同様に」(同書162頁)、集団的自衛権は、「合理的な自己拘束」(同書173頁)として、違憲だという。

そして「いったん有権解釈によって設定された基準については、憲法の文言には格別の根拠がないとしても、なおそれを守るべき理由がある。いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」(同書163頁)という理由で、集団的自衛権も違憲にしておかざるをえないのだと主張する。

 この長谷部教授の議論は、少なくとも「公」と「私」の区分による長谷部教授自身の「立憲主義」とは、全く関係がない。

 国家が自らを自己拘束する、というのは、ドイツ国法学的な観念論ではないか?実際に拘束する言説を述べたのは、せいぜい内閣法制局の役人なのだから、いちいち国家が自己拘束していると考える必要はないのではないか?「国家は仮想の人格であり、人為的構成物である。生身の個人とは異なり、仮想の人格は自己保存への権利を持たない」(同書157頁)としたら、なぜその人工構成物が自己拘束などをすることができるのか?

なぜ『憲法と平和を問い直す』は、150頁以降に「立憲主義」が登場しなくなってしまうのか?長谷部教授は、あるときは「国内的類推(国家を擬人化して国際社会を捉える発想)」を拒絶しながら、集団的自衛権は違憲だと主張するときだけは密かに「国内的類推」をしのびこませているのではないか?それは「国内的類推」のダブル・スタンダードであり、そもそも「立憲主義」のダブル・スタンダードではないのか?

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