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飯館村「帰還」の哀しみ(下)託した「願い」 - 寺島英弥

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仮設住宅の入居者たちを元気づけた行事、春の「桜まつり」(2012年4月28日、筆者撮影、以下同)

「拝啓 初夏の訪れも穏やかな飯舘村の山々にもすっかり新緑が映え、つばめが軒下の巣にせっせと餌を運び、さえずっていたり、以前の村の風情が長閑(のどか)さを漂わせています。……が、田んぼに目線を下ろしますと、黒いトンパック(注・除染廃棄物のフレコンバッグ)に覆いを掛けて、ドシーンと塞がっている様に、いつまで続いてしまうのか?(私の生きているうちに……)と不安で胸が痛みます。村は3月30日を以て避難解除になり、ようやく帰れたと村へ戻った人が170人ほど(筆者注・9月現在で約400人)との事。(中略)私たちは『村に帰ってからも続けたい針仕事!』をモットーに、薄気力ではありますが、頑張ってきた想いです。しかし、現在帰村できた人は3人。村外に移住者の多い実態であり、各々が身辺定着も難しい現在では針仕事をする心の余裕が見いだせなく、存続する事は会員の心を和ませる処か、反対に苦痛にしてしまうかと判断致しました」

「肩の荷を下ろせた」

「今まで支援してくれた人たちに出させてもらった」

 今年7月1日、福島県飯舘村八和木地区の佐野ハツノさんを訪ねた際、見せてくれた手紙の文面はどこか哀しげだった。古い着物を多彩な柄の普段着に仕立て直す「までい着」創作の活動を本稿(上)で紹介したが、この手紙は、自身が代表だった主婦仲間との「カーネーションの会」を解散するという「お知らせ」。長い感謝の言葉がつづられ、別の便せん1枚には、仲間10人の御礼のメッセージが書かれている。会が解散したことで、ハツノさんの自宅の広い物置には、完成しながらも未販売の「までい着」や、手つかずの着物がそのまま保管されていた。


仮設住宅で活動した「カーネーションの会」。全国から支援の着物が寄せられ、ハツノさん(左端)ら主婦たちが「までい着」を縫った(2013年1月23日)

「福島県立医大小児科の患者さんたちの入所施設に寄付を申し出たら、とても喜んでもらえた。そのことも手紙で報告したの」

 ハツノさんは「これで肩の荷を下ろせた」と、安堵の表情を浮かべた。お知らせによくあるような、「今まで支えていただきました皆々様に深く感謝し、御礼のご挨拶を申し上げます」という言葉すら、ハツノさんの人生に関わった人々へ万感の思いを込めた「告別」のようにも読めた。

 2013年に最初の手術をした大腸から肝臓に転移したがんは、その後の2回の手術や抗がん剤、陽子線治療、免疫療法でも改善しなかった。「私、顔が黄色くない?」と、ハツノさんは少し気にしているようだった。

「黄疸が強くなってね。動くのも大変で吐き気がする。全身がかゆく、それもひどくなる」

 これほどの重い症状が出始めたのは、6月半ばのこと。湯治に行った秋田県の玉川温泉で、湯につかれないほど体がだるくなり、帰宅すると血尿が出た。4年にわたり治療してきた郡山市の病院の主治医の診断では、「もう肝臓が働かなくなっている」ということだった。このとき、夫の幸正さん(70)は「(余命は)あとひと月と告げられた」と言う。6月末に予定していた親戚との温泉旅行を反対していた主治医も、「最後の旅行ですよ」と許可してくれた。

「でも、それからまたひどくて食事もできず、だるくて寝てばかりいたの」

 それでも笑顔を見せるハツノさんは、最後になるであろう入院を4日後に予定していた。

心を解き放つ田園風景

 この日、見舞いに持参したのは山形のサクランボ。ハツノさんは「おいしそうだ」と真っ赤な1粒をつまんだ。

「きょうは食欲がある。伊達市に避難している人が新しい品種のジャガイモを持ってきてくれて、みそ汁を父ちゃんに作ってもらった。とてもおいしくて、普通の茶わんに1杯食べたよ。ご飯も3分の1くらい。いつもは食べられないんだけど」

 ハツノさんの誕生日は9月5日。4月の取材では、「思ったより元気で、誕生日までは大丈夫なのでは」と希望を持っていた幸正さんに対して、本人は「私の判断では、夏まで持つのかなと思う。(主治医から)2、3月ごろ、『(がんの)痛みはないか』と聞かれた時は何ともなかったけれど、今は痛くてね」と、淡々と話していた。手術を重ねた後、いちるの望みを託した陽子線治療も効果が現れず、主治医は「手術はもうできない。体力的にも無理」「薬(抗がん剤)も、もう施しようがない」と告げたという。

 幸正さんはサルノコシカケや霊芝などを煎じ、回復を願う友人、知人たちも効能があるとされる飲料などを届けてくれ、ハツノさんも一生懸命に服用した。「体調が良くなって。もしかして、治るかもしれないと感じる」と顔をほころばせる時期もあったが、それらもやめてしまった。「あんなに努力してきたのに変わらない」「まったく情けない、情けない」。弱気になるのはハツノさんらしくない、とたしなめると、「今度はだめ、今度はだめなんだ」と涙声になった。

 この7月1日の取材の前日に、ハツノさんは親戚との温泉旅行から帰って来たばかりだった。この旅行が心身ともに大きな負担になってしまったというが、ふさいだ心をぱっと解き放ってくれたのは、家から眺めた田園風景だったという。「そのまま外に出て、歩きたかったけどね。父ちゃんと春から野菜を作り始めたハウスが見えて、とても気持ちが良かった。もう、トウモロコシが高く伸びているよ」

 東京電力福島第1原子力発電所事故による放射線量が比較的低く推移した八和木地区は、除染作業が2016年の早い時期に終わり、佐野さん夫婦はその年のお盆前に、村の許可を得て仮設住宅からの帰還を果たしていた。思った以上に早く「末期」の告知を受け、闘病の不安を抱えながらの生活再建になったが、ハツノさんに後悔はない。

「帰ってきて良かった。ここにいると、体の具合は悪くとも、心は安らぎ、自由でいられる。ウグイスの声も聞こえて、なんていう長閑(のどか)さ。狭い仮設の毎日のように誰かに気兼ねすることなく、自分の好きなように暮らせるから」

わが家しかない

〈佐野家では、幸正さんの母トミエさん(89)と、長男裕さん(44)の夫婦と2人の孫が同居していました。ハツノさんが開いた「までい民宿 どうげ」の手作りチラシでも、一緒に笑顔を見せていた家族です。村の若い世代の多くは、原発事故の直後から「村内で放射線量が異常に高まった」との情報やニュースが流れたことから、いち早く自主避難を始めていました。裕さんの家族が八和木の実家を離れたのは(2011年)3月17日の夜。両親から経営の移譲を受けて和牛の繁殖を手掛けていた裕さんは、栃木県の那須高原の牧場に仕事を見つけて、先にしばらく福島市を避難先にしていた妻子を7月に呼び寄せました。ハツノさんは、愛する孫たちと別れた朝の悲しさ、苦しみを片時も忘れられないでいると語ります。


ハツノさんは帰還後の新生活へ希望を捨てず、青い新車の前で笑顔を見せた。後ろが、残した古い板蔵(2017年3月8日)

「出発する時、男の孫が『お父さん(裕さん)の下駄を持っていってあげたい』と、母屋の向かいの古い板蔵に探しに行ったの。わたしも一緒に入って、手をつないで、こう話した。『ここにあるものはみんな、お前のものだよ。家も田んぼも、お前のものになるんだ。だから、大人になったら戻ってきて、農業をやってな。それまで、じいちゃん、ばあちゃんが一生懸命に守っているからな』」

 松川第1仮設住宅から車で30分ほどの八和木の家に用事で戻るたびに、帰り道、板蔵でのことを思い出し、涙があふれるといいます。「明るく元気にしているけど、わたしは泣いているの。いつも、心は泣いているの」〉

(筆者のブログ『余震の中で新聞を作る144~生きる、飯舘に戻る日まで⑧古里最後の集い、家族の別離』より)

 ハツノさんから聞いた、福島第1原発事故直後の佐野家の家族の別れだった。わが家から、古里からも離され、その引き裂かれる思いを癒やしてくれる場所は、やはり、わが家しかなかったのだ。たとえ病は重く、あとわずかしか生きられない日々だったとしても。

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