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インラック裁判は何を意味するか―タイ社会の分裂と政治の司法化 - 外山文子 / タイ政治、比較政治学

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2017年9月27日、タイの最高裁判所政治職者刑事訴訟部により、2014年クーデタ直前まで首相を務めていたインラック・チナワット(2011年~2014年在任)に、懲役5年の実刑判決が下された。罪状は、同政権が実施したコメ担保融資制度に伴う汚職を防止する義務を怠ったとする「職務怠慢」である。

この裁判は、本来は8月25日に判決文が読み上げられる予定であったが、インラックが裁判所に現れなかったため、期日が約1か月延期されていた。インラックの所在については、海外逃亡中ともいわれているが、依然詳細は不明のままである。現在、彼女に対しては逮捕状が出されている。インラックには控訴する権利が残されていたが、新たに施行された法律により、権利を行使することは非常に困難な状況となった。

タイ国民の反応

前首相に対する5年の実刑判決という事態に対して、タイ国民の反応は比較的冷静である。ドーンムアン空港近くに事務所を構える弁護士の男性は、「今回の裁判はあくまで政治的な裁判だから」と述べ、インラックとインラックの兄であるタックシンの政権時の政策について「貧しい国民を助ける素晴らしい政策」であったと評価した。

対して、フリーランスの研究者だという年配の男性は、「インラック政権には実際に汚職があったのだと思う」と話し、判決はフェアなものであったと述べた。更に「今回の判決によって、赤色と黄色に二分されている国内の対立が緩和されると思う」と続け、判決内容を歓迎する旨を述べた。

今回のインラック裁判は、インラック元首相が汚職を行ったか否かが争点ではない。インラックが、同政権の政策に関連して起こった汚職疑惑に対して、適切に対処をしなかったことに対する「職務怠慢」の罪について争われたものである(注1)。 つまり非常に曖昧な罪に対する裁判であり、当初から同裁判の政治性は多くの国民の目にも明らかであった。

9月4日から8日にかけて実施された世論調査では、82.3%の回答者が、インラックが逃亡したことは政治対立の緩和に対して良い効果を持つと答えた。69.3%の回答者は、インラックの逃亡はタイ司法の裁定が二重基準であることを示したのだと批判的な回答をしているが、68.4%の回答者は、政治的な緊張を減少させるとも答えている。国民の関心は、裁判の法的な公正さ以上に、国内の政治対立に対する影響の方にあるといっていいだろう。また、判決後に実施された世論調査では、過半数以上の人々が判決内容は予想通りだったと回答した。

インラック

インラック

沸き上がる疑問

ここで一つの疑問が沸き上がる。なぜタイ国民には、裁判が公正なものではない可能性を認識しながら、インラックの海外逃亡が政治的緊張を緩和させるかもしれないと考える人々が存在するのだろうか。つまり、なぜインラックは、排除すべき存在だとみなされるのだろうか

タイ国民の今回の裁判に対するある種冷めた反応について理解するには、タイ政治の暗黙のルールと、過去約10年間の政治状況について確認する必要があるだろう。インラックは、2006年クーデタにより追放され2008年より海外亡命中のタックシン元首相(2001年~2006年)の末の妹であり政治的後継者である。よって今回の裁判についても、タックシン政権の時代に遡って理解する必要がある。

日本では、タックシンについて好意的に評価されることが多いが、本稿では負の側面にも焦点を当て、「民主主義か反民主主義か」という二分法を超えて、タイ政治の状況についてより客観的に分析を試みたい。

タイ政治の暗黙のルール

タイは、1932年の立憲革命以降に13回のクーデタが成功しており、なかなか民主化が進展しないことで知られる。しかしタイ政治の歴史を俯瞰すると、2つの暗黙のルールが存在することに気づく。

(1)権力の共有

タイでは、いずれの勢力であっても、権力を長期間独占し続けることは許されない。またそれぞれの勢力の中においても同様である。このルールが最も良くあらわれているのが、憲法の規定である。表1に示したように、1932年から現在まで、首相と上院が任命であり下院が民選という「半民主主義型」の憲法が、最も長期間使用されてきた。

シノドス インラック裁判 外山文子 表1-1

第二次世界大戦後の冷戦期、東南アジア諸国では「開発独裁」と呼ばれた独裁政権による超長期支配がみられたが、タイは他国に比べて、軍事独裁政権による支配の期間が比較的短かった。1970年代半ば以降は、クーデタ後の軍事暫定政権による支配は1年程度で終了し、総選挙が実施されてきた。

また軍の内部においても、特定の指導者による長期支配は組織内から反発を招いた。1960年代から1970年代初頭まで支配したタノーム・プラパート体制しかり、1980年代のプレーム政権しかりである。軍に対してクーデタ後1年程度で総選挙を実施するように要求していたのは、昨年崩御したプーミポン国王であった。国王は、国民の間で絶大な人気を誇ったが、自らも憲法の規定に従い、国会や枢密院による一定の統制を受けた。

(2)社会の調和

もう1つのルールが、社会の「調和」を維持することである。タイ語では「クワームサーマキー」という単語が使われるが、タイにおいては民主主義を含む他の価値よりも、社会の調和がより重要な価値だとみなされる。「調和」が意味するところは、人々が同じ信念に従い行動すること、問題が生じた場合には自らの考えが他者のものよりも価値が高いとは考えず、交渉を通じて問題を解決していくことを意味するとされる。

もし衝突が生じた場合は、「和解」することが強く求められる。つまりタイでは、社会が分裂するような争いがあってはならないのである。タムマサート大学政治学部の研究者によると、タイでは村落内で大きな揉め事が生じた場合、村を2つに分割するという方法で解決する例がみられるとのことである。たとえ村の中であっても、分裂や対立関係が存在することを許さないのである。

このような文化であるため、タイでは政争で負けたものは海外に追放されるのが一種のお約束となっている。例えば、第二次世界大戦前後に首相を務めたピブーンは、サリット将軍との政争に敗北した後は、日本に移住して神奈川県相模原市で亡くなっている。

また、1992年5月に民主化を求めた一般市民と軍との間で衝突が起こり、一説には250人近い死者が出たともいわれる「5月流血事件」が生じた際に、タイの知識人らが最も憂慮したのは、タイ民主化の未来についてではなく、近い将来にタイ社会の中で深刻な政治的分裂が生じる可能性についてであった。1970年代のデモは、学生が中心的メンバーであったが、1991年から1992年にかけてのデモでは、学生のみならず様々な職業の市民がデモに参加した。大衆の力を目の前にして、タイ社会の旧エリート層や知識人らは危機感を覚えた。

タックシンとポピュリズム

2つのルールが揺らぐ時がきた。タックシン政権の誕生である。タックシンによる支配には、どのような特徴があったのだろうか。

タックシンについて語られるとき、「ポピュリスト」という用語が頻繁に使用される。タックシンがポピュリストであったか否かという問いに対しては、研究者によって見解が分かれてきた。チュラーロンコーン大学政治学部の研究者は、タックシンの政策は合理性を欠き、過度に農村部に分配を試みていたとして、タックシンをポピュリストであったと断じる。しかし別の研究者は、タックシンに限らず、その後の他の政権も農村部へのばら撒き政策を行っているのだから、タックシンのみをポピュリストであると糾弾するのは不適切であると主張する。

民主主義の負の側面として指摘される「ポピュリスト」「ポピュリズム」とは、果たして何を指すのであろうか。

長らく定義が混乱してきたが、現在、ポピュリズムに関する非常に明確な定義が提唱され注目を集めている(注2)。 その定義によると、政策の内容はポピュリズムであるか否かについて関係がない。ポピュリズムの根幹は、「我々のみが、真の人民を代表する」という言説だとされる。またポピュリストは「人民がひとつの声で語ることが可能で、政権獲得後にしなくてはならないことを政治家に正確に伝える命令委任的なものを発することが出来る」と想定している。またポピュリストは、道徳的に純粋な人民とその敵との何らかの区別を必要としているとされる。この言説は、「我々」についても、代表されるべき「人民」についても、対象を限定する排他的な性格を持っている。

上記の定義は、タイ政治について理解するうえでも重要なヒントを与えてくれる。政策については、ポピュリズムの定義から外れるとのことであるが、民主党のアピシット政権であれ、現在のプラユット軍事政権であれ、いずれの政権も地方や農村部に対するばら撒き的な施策を実行するようになっている。確かに、政策のばら撒き体質によって、政権をポピュリストか否かについて分類することは適切ではないように思われる。

タックシンは、自らの総選挙における獲得票数を幾度も誇示し、自分だけが正義であり、自らのみが国民の統一的な意思を代表しているのだというイメージを作り上げようとした。タックシンは、ラジオなどを使用して国民に対して直接的に訴えることを好み、本来は議論の場であるはずの国会を軽視した。彼は、自らこそが国民の要望を最もよく理解している人間であると主張し、自らに対する批判や反対に対処するのは、時間の無駄であると捉えていた(注3)。 

ある時には、法案に反対した野党が、法案を国王に奏上する前に憲法裁判所に対して違憲審査を求めようとしたが、与党所属の下院議長は早急に帰宅してしまい、野党による憲法裁判所への提訴を妨害するという事件も起こった。またタックシンは、マスメディアに対する統制を行ったことでも知られる。タックシンは民意による支持を掲げて、民主主義の根幹である多元性を排除しようとした。加えてタックシンは、民主党の票田である南部で人権侵害も伴う強硬な麻薬討伐も行った。

これらは、いずれも「我々」と「人民」以外を排除しようとする排他的行為であったと解釈できる。この意味において、タックシンはポピュリストであったといえよう。結果として、タックシンのポピュリズムによって、タイ社会に分裂が生じた可能性がある。そして、このような排他的な言説に伴い、本来は衝突するはずのなかった国王とタックシンとの間に「徳」を争う競争が存在するような間違った印象を国民に与えてしまった。

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