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板橋からのインデペンデンス・デイ 練馬区独立70周年

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写真AC
東京都内の北西に位置する、練馬大根でもお馴染みの練馬区。大昔からの行楽地・石神井公園や東映撮影所がある大泉なども練馬区にある。

ここ最近、区内の商店街を歩いていると目にする『練馬独立70周年』の文字。

「独立!?」

1947年にお隣の板橋区から独立して、今年で70年を迎えている。

それにしても『独立』って。戦後の日本国内において、独立なんて暴力的な表現が使われることがあるんだと驚き、そしてニヤついてしまう。

「大げさなんじゃない?」

第二次大戦以降の現代史は学校の授業ではあまり取り上げられない箇所なので、もしかすると私が知らないだけで、練馬と板橋の間で血で血を洗う独立戦争が行われたのか?

虐げられた練馬の人々が沢庵漬用に天日干ししておいた、細くて長い練馬大根を手にとって立ち上がり、板橋になだれ込んだ。干してムチのようにしなる練馬大根は降り回すとブンブンと風切り音を唸らせて、板橋勢をブンブン打ち崩した。ブンブン、ブンブン唸りを上げる練馬大根の前に板橋勢はなすすべもなく、練馬は独立を手にした……

そんなストーリーを妄想してみた。

本当のところはどうなのか、練馬区内の図書館で調べてみると1987年刊行『練馬区独立40周年記念 練馬区小史』の冒頭には、

「練馬区の独立」

練馬区の誕生という言葉で表現するのが適切のようにも思うが、40年前、練馬区が板橋区から分離独立するのには、正に「生みの苦しみ」といってよい程の過程があった。

いったい何があったのか、探ってみたい。

板橋区役所は遠かった

現在の板橋区役所
明治維新後の東京は何度も行政区画が変わり、昭和7(1932)年10月1日に東京市の35区制がスタートしている。その時、現在の練馬区は、お隣の板橋区の中の一地域『板橋区』に含まれていた。

この東京市の措置に対して35区制度が始まる直前、昭和7年5月の段階で練馬町周辺の8か村は、板橋区ではなくひとつの区として独立させてほしいとの陳情書を提出している。さらに2ヶ月後の7月には旧・北豊島郡役所を板橋区役所とすることに対して練馬地域各地で反対集会が開かれた。

制度がスタートする前から、なぜ反対運動が起こったのか?

それは、板橋区役所が練馬から、とーーっても遠かったから。

板橋区役所が置かれた旧・北豊島郡区役所は、旧・板橋区の中でも東の端っこ。

東西に広い練馬から、これまた広い板橋の東の端の区役所まで移動すると、現代でも結構遠い。例えば21世紀の今、練馬の西の端の保谷駅や武蔵関駅から板橋区役所まで電車で移動すると、およそ1時間。それが昭和の初期なんだから列車の本数だって少ない。さぞ不便だっただろう。
『板橋区役所まで自転車で行き来しました。電車だと西武新宿線なので午後いっぱい使うことになるので自転車で行ったものです』
『一番困ったのは、税金を(板橋)区役所まで納めに行くのに税金よりも交通費の方が余計にかかったこと』
当時のボヤキが『練馬区史』の中の『独立当時を回顧する座談会』で伝えられている。

35区制を検討した東京市案では『(板橋と練馬は)地域広大なりといえども、当分の内、特に合して一区となすを適当なりとす』と示し、ゆくゆくは分離してもいいよとの含みをもたせている、と読み取ることもできよう。

ただ35区制は一区あたり平均14万人と、人口を基準に分割したため、板橋と練馬を足して人口11万人だった当時は『板橋区』として1つにまとめられた、そんな船出であった。

『板橋区』が誕生したあとも、練馬地域からはせめて板橋と練馬全体の真ん中に区役所を!と要請し続けたが、叶えられることはなかった。

というのも、板橋区役所の置かれた場所は下板橋宿。板橋といえば川越街道の起点で、板橋自身が東京市の中でも昔から栄えた土地だったのだ。

それに比べて当時の練馬は野菜畑が広がる農村地帯で、人口に至っては昭和7年当時、板橋町が8505人に対して練馬町は1733人と圧倒的に板橋が優勢だった。人の多いところに区役所を置く。これはいたしかたない。その代わりに練馬地区には『練馬派出所』と『石神井派出所』2つの区役所出張所が『板橋区』発足と同時に設けられることになった。

それでも練馬地域からのボヤキは止まらない。
『(派出所ができても)微々たることで直接区役所に来なければ用事が果たせず』
『練馬の西部方面から板橋区役所に行くには2回も電車を乗り換え、しかも往復58銭も交通費がかかるありさま』
練馬の人々は動かない行政とどう対峙したのか。

当時の58銭は今の価値でいうと1500〜1700円くらい。交通費としては高い。

何とかしてほしいと練馬地域住民の要望を受け、地元選出の加藤隆太郎区議らが中心となって、せめて練馬地域派出所の業務拡大と大幅な委譲を求めた。が、話が進むことなく10年余りの月日が過ぎ、やがて太平洋戦争が始まり、住民の意向も制約下におかれるご時世に。

そんな中、東京市は東京府と内務省の二重監督を解消しようと地方制度の改革を行い、昭和18(1943)年7月、府と市が一体化した『東京都』が誕生している。

同年9月には都議会議員選挙が実施され、加藤隆太郎区議は都議会議員に当選。独立運動の場を東京都にも求め、翌昭和19年1月、都議会で練馬地域住民の不利不便を訴え、練馬・石神井派出所を合せた一区独立を提言している。すると…。

大きいところで叫んでみるものである。

大達茂雄東京都長官は練馬地区の深刻な問題を改めて知るところとなり、早速調査・処置したいと応じ、民生局長に実情調査を指示している。

この頃、練馬では独立を目指す地元団体『練馬区設置期成会』が結成され、会長には元陸軍少佐の中村四郎太氏を迎えるなど時節への細心の注意を払い、都の実情調査の受け入れや期成会幹部による大達都長官への再三に渡る陳情を行っている。

やれる限りを尽くして昭和19年5月、練馬区派出所が板橋区役所の練馬支所に昇格し、待ちに待った独立への道筋が整ってきた。 と思われた矢先。

同年7月、頼みの大達都長官が小磯國昭内閣の内務大臣の職に就くため長官を辞任。さらに追い討ちをかけるように、戦局は日増しに厳しくなり、内務省は東京都に対して(土地の)境界等の廃置分合は一年間停止の通達を出した。 

これで区市町村の分離統合は一時棚上げとなり、練馬の独立運動も一旦休止となってしまった。

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