記事

1Q84、村上春樹


僕は最近、日本中でとにかくものすごく売れて、BOOK 3の発売日には本屋に朝から行列までできたという村上春樹の最新作「1Q84」を、みんなからはかなり遅れて読んでみることにした。全部読むのに一週間かかった。僕はこういう流行、またはバブルみたいなものには一番早く乗るか、さもなくばかなり遅れて、だいたい数ヶ月から1年ぐらい後に、じっくりといろいろな評判を念入りに確かめた後に乗ってみることにしている。すべてのブームに飛び乗っていてはお金も時間も足りないし、かといってひとりの物書きとして―いつから僕は「物書き」になったのかという当然の疑問はひとまず脇に置いておくとして―日本中でブームになったものは自分の目で、耳で実際に確かめてみないわけにはいかないからだ。たとえそれがあまりよくない評判で、お金と時間を使ったことを後悔させられることがおおむね確定していたとしてもだ。そうやって僕なりの感想を、それが良いものであっても悪いものであっても、まるで老舗の背広屋が上質なスーツを丹念に仕立てあげるように、ひとつのエントリーに仕立てあげてLivedoor Blogにこうして発表するのが、ひとりの物書きとして、ひとりのブロガーとしてのある種の社会的使命なのではないかと僕は信じている。すこしおおげさかもしれないけれど。まるで成熟した鮭の雌雄が危険だとわかっていても、生まれた川をもう一度登らなければいけないように。あるいは正義感の強い弁護士が、何もかもを失った世間の誰一人だって同情しないだろう犯罪者の最後の権利のために法廷で被告を弁護するように。

1Q84」のテーマは僕に言わせれば「不条理な社会システム、あるいはそこに巻き込まれる不条理な人々」だ。話のベースには、あのオウム真理教による多数の死者を出した―つまりはオウム真理教の信者たちに殺戮された―地下鉄サリン事件があるのだろう。村上春樹は以前に地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたノンフィクション「アンダ−グラウンド」を書き下ろしている。その時、村上春樹が感じたカルトとそこにハマるエリート達に対する強烈な違和感、あるいは脳の中に鳴り響く不協和音みたいなものが「1Q84」のテーマになっていると思う。そこに倒錯したセックス、家庭内暴力、都会の孤独、幼年期のトラウマなどのサブ・テーマが絡まり合っていく。物語はスポーツインストラクターで殺し屋の青豆と、予備校講師で小説家志望の天悟のストーリーがパラレルに小気味よく進行していく。まるでアクション映画みたいに。

正直に告白すると、僕にはそれほど面白い、あるいは完成度が高いとは思えない小説だった。というのも出てくるカルト教団や、1984年の様々な描写は明らかにとてもリアリスティックで現実に起こったことをベースにしているにもかかわらず、ちょっと屈折してしまったもうひとつの1Q84年の世界―つまりリトル・ピープルが空気さなぎを紡ぎ、月がふたつある幻想的な世界―が必然として出現するその説得力が足りないように感じるからだ。あまりにも現実的な世界から、非現実なファンタジーの世界への接点のようなものの必然性が足りないような気がする。あるいは十分強くない。その辺が、たぶん僕がこの作品を心から楽しめなかった原因なのかもしれない。

とはいえ、ひとつひとつの文章はどこまでも美しかったし、村上春樹の巧みな比喩表現には、同じ物書きとして、関心しないわけにはいかなかった。率直に言って文章を綴るという技術において、僕は村上春樹には一生かかっても追いつけないだろうという事実を認めないわけにはいかないのだ。なにせ村上春樹に言わせれば、ホテル・オークラ本館のロビーは巨大で上品な洞窟で、そこのカーペットは極北の島の太古の苔だし、ちょっとした料理のために茹でたむき海老をまな板の上に並べるとき、それは兵隊を整列させるように並べるのだから。

ところでカルトというのは最近の日本人が特に関心を持っているとは言いがたいテーマだ。また、この作品は決して大衆向けではなく、素直に言えば決して楽しめるという小説でもない。それでもこれほど爆発的に売れた、それもモノが全然売れないこのデフレ経済真っ只中の日本でここまで売れたという事実に僕はおどろき、そして大きな関心を持った。この辺は特に使い道が決まっていたわけでもないにもかかわらず、多くの人がApple社のiPadを買ったのとどこか似ていなくもない。Apple信者たちのスティーブ・ジョブスに対する狂信的とも言える崇拝は、どこか1Q84に登場するカルト信者と符合するような気もする。実際のところ根暗な文学青年が次々と美少女とセックスするという都合のいい(おそらくは現実には起こらない)設定が、同じような境遇の男たち―つまり根暗で本好き―にある種のカタルシスを与えているというとても単純な、しかし極めて現実的な理由によって、商業的に成功しているのかもしれない。このような読者たちは(彼らに言わせれば)たしかに不条理な現実世界に対峙しているのだから。しかし、この仮説では村上春樹の作品には女性ファンもとても多いというもう片方の事実は全く説明できない。ちょうど月の裏側が地球からは決して見えないみたいに。

トピックス

ランキング

  1. 1

    よしのり氏「日韓合意は失敗」

    小林よしのり

  2. 2

    羽生竜王vs藤井四段 対局は幻に?

    大村綾人

  3. 3

    橋下氏が岩上氏を名誉毀損で提訴

    橋下徹

  4. 4

    よしのり氏 徴兵制の実現は無い

    小林よしのり

  5. 5

    舛添氏 死去の西部邁氏を追悼

    舛添要一

  6. 6

    電車内出産の批判に「闇感じる」

    中村ゆきつぐ

  7. 7

    松本人志 小室謝罪に「何の罪?」

    女性自身

  8. 8

    野村克也「寂しくて仕方がない」

    NEWSポストセブン

  9. 9

    辺野古デモの訴える非暴力に疑問

    和田政宗

  10. 10

    「池の水~」はテレ東に合わない

    文春オンライン

ランキング一覧

ログイン

ログインするアカウントをお選びください。
以下のいずれかのアカウントでBLOGOSにログインすることができます。

コメントを書き込むには FacebookID、TwitterID のいずれかで認証を行う必要があります。

※livedoorIDでログインした場合、ご利用できるのはフォロー機能、マイページ機能、支持するボタンのみとなります。