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女性ドキュメンタリー制作者の草分け 磯野恭子さん 死去

広島の原爆ドーム前での磯野恭子さん(1980年頃)=本人提供

ドキュメンタリーの女神だった!

 磯野恭子さん。「いその・やすこ」と読むのだが、テレビの世界では「いその・きょうこさん」と呼ばれ、70年代から90年代にかけては

「ドキュメンタリーの神様」みたいな存在だった。

 いや、同世代のドキュメンタリーの世界には木村栄文さん(この人も本名は「きむら・ひでふみ」だが、「きむら・えいぶんさん」と呼ばれていた。)という、同じく「ドキュメンタリーの神様」と呼ばれる人も存在した。

 「えいぶんさん」が、TBS系列のRKB毎日放送(本社・福岡県)の制作者だったのに対して、「きょうこさん」のほうは日本テレビ系列の山口放送(本社・山口県)の制作者であり、どちらも民放地方局の制作者だった。「えいぶんさん」は一部にドラマ的な手法を駆使して虚実入り混じった芸術作品で知られたの対して、「きょうこさん」のほうは徹頭徹尾、当事者の証言を取材して歩く、という今でいう、調査報道、報道ドキュメンタリーのスタイルを貫いた。

 彼女は日本テレビ系列の「NNNドキュメント」という日曜深夜に放送されている系列各局が制作するドキュメンタリー番組の常連制作者だった。毎年2回、全国の制作者が集まって互いの企画を検討する会議があるのだが、そこでも「きょうこさん」は存在感も発言力も別格だった。

「山口放送の磯野です」

 独特のツヤのある声で挨拶されると、皆が注視して(あれがドキュメンタリーの神様か…)と全身を緊張させた。

それくらい、大きな賞ばかりを獲っていたし、また迫力があった。

 おそらく「山口放送」という会社の名前を聞いて、テレビの世界に関心が多少なりともある人が思い浮かぶのは、映画化されて全国の映画環で上映されている「ふたりの桃源郷」というドキュメンタリー映画だろうと思う。

 その「ふたりの桃源郷」を取材し制作した佐々木聰ディレクターが尊敬してやまない人が磯野恭子さんであり、自分の中に同じ会社で受け継がれるDNAを強く意識する存在だった。

 その彼女はなぜ「ドキュメンタリーの神様」と呼ばれたのか。

 私自身、長いことテレビドキュメンタリーを制作する仕事をしてきた人間として、同じ仕事をしたからこそわかる磯野さんの凄みを大学の教員になってから磯野さんの作品を改めて視聴してみて圧倒されてしまった。

ドキュメンタリーでなければ伝えられないものを伝えた。 

 一言でいえば彼女の仕事はこれに尽きる。

 ドキュメンタリーを「一回性の勝負」と割り切り、今のようにテレビ機材もテープやバッテリーが持たずに長時間は撮影できなかった時代に、一回こっきりで、今でいうアポなし取材だけを駆使して取材相手に迫ってきた。

 原爆の被害者である胎内被曝者の家族、カネミ油症の被害者、戦争で命を落とした特攻兵士の遺族、徴用で朝鮮半島から駆り出されて炭鉱などで働かされた人たち、戦後も旧満州に置き去りにされて帰国しても差別な偏見にさらされた中国残留婦人・・・。彼女が取材したことで日本社会でその存在が知られるようになった人たちは数知れない。

「その痛みってどのくらいの痛みなんですか?」

 痛みを抱えながら苦しむ人に、その痛みにも遠慮することなく、とズバッと聞き続けた。

 当事者を訪ね歩く、というオーソドックスな手法。それは今でいうところの「調査報道」の手法でもあった。

 そんな言葉がテレビ関係者の間で広く知られる以前に、磯野さんはいろいろなテーマで調査報道して歩いていたのだ。

彼女が「神様」であるゆえんはそのインタビュー力にある。

 けっして冷たい声ではなく、どこまでも優しい声。それこそ女神のような声だ。

 その声で、相手の境遇を思いやる言葉を選んでズバッと聞く。

 無神経でも無遠慮なのでもない。相手に共感しながら涙を流しながらも聞いていく、独特の間合いだ。本来、ドキュメンタリーの名手だけが持っているギリギリの間合いともいえる。

 山口放送を常務取締役まで務めた後、岩国市の教育長などを歴任した後もかつて取材した人たちとの交流を絶やすことはなかった。3年前、磯野さんが80歳の時にインタビューしたことがあるが、その頃もかつてドキュメンタリーで取材した「中国残留婦人」を支援するNPOの代表として奔走していた。 

最後の最後まで「寄り添う」ことをやめなかったドキュメンタリー制作者だった。

 昨今のテレビでは「寄り添う」という言葉を連発して安売りする傾向がある。「24時間テレビ」などその典型だろう。

 でも磯野さんは文字通りに生涯をかけて自分が作品に登場させた人たちへの支援をテレビを離れてからも続けようとしていた。

 本当の意味で寄り添い続けた取材者だったということができる。

 テレビの報道現場で、その場しのぎの刹那的な関係ばかりの「取材」が目につくようになって久しい。

 彼女はその対極にいたのだ、と強く思う。

「女性」であることで回り道したテレビ人生

 磯野さんは山口放送という会社で経営陣の一角まで上りつめた人だったが、入社してしばらくは「女性」ゆえに思うようにならない時期が長かった、という個人的な思いを3年前のインタビューで吐露していた。

「もともとテレビでドキュメンタリー番組をつくりたかったの」

「でもね、当時(入社は1959年)、女が放送局に入社するにはアナウンサーしかなかったの」

「入社して3年してやっとラジオのドキュメンタリーを作る部署に異動したの」

「それからしばらくしてやっとテレビのドキュメンタリー制作へ。その時はうれしかった」

 テレビ番組を作るようになってあれよという間に頭角を現し、「聞こえるよ母さんの声が…~原爆の子・百合子~」(1979年)でいきなり芸術祭大賞を獲って全国的に有名な制作者になる。しかし生まれる時代が少し遅かったら、最初からテレビでもっと数多くのドキュメンタリー番組を作れただろう・・・そんな無念さが込められた話だった。

 彼女の作品は、横浜にある放送ライブラリーに行けば、誰でもドキュメンタリーを見ることができるのでぜひ見てほしい。検索の端末で「山口放送」「磯野恭子」と検索すればヒットした数々の作品から選んで無料で視聴することができる。

 詳細はNHK放送文化研究所の依頼を受けて、私自身が生前の磯野さんにインタビューしてそれを元に作品分析した原稿がネット上にあるので興味ある人には読んでいただければ幸いだ。

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/report/2014_01/20140104.pdf

 磯野恭子さんをめぐるエピソードや作品群は、日本テレビ系列の「NNNドキュメント」の関係者では伝説といえるほど語り草になっている。亡くなってから「ローカル民放の作品が国を動かした業績はすごかった」「もっと若手に彼女の手法を学ばせたかった」などと悼む声が広がっている。

 だが、残念なことにすでに現役を退いてから20数年が経っていて、「磯野恭子」と聞いてすぐピンと来る人は、相当にシニアのテレビ関係者に限られている。

最近、「ドキュメンタリーを作りたいんです」といって訪ねてくる若い人が目につくようになっている。

 そうした意識がある人はどちらかいえば日本のテレビ番組ではなく、外国のドキュメンタリー映画を見て、心を動かされて自分も将来はそういう仕事をやってみたいと思うらしい。

 でも、ちょっと待ってほしい。日本のテレビドキュメンタリーも、かつてはすごかったのだ。

 磯野恭子さんの作品を見て実際に感じてもらえるならば、天国に旅立った本人もきっと喜ぶに違いない。

※Yahoo!ニュースからの転載

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