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文京区の貧困当事者は、語ることができるか

■文京区

「子ども宅食」が話題を呼んでいる(食料を直接手渡す「こども宅食」は、「7人に1人が貧困」の子どもたちを救うのか)。貧困支援としては画期的な取り組みで、僕も大賛成だ。

文京区区長・成澤廣修氏とNPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹氏の対談を読んでいてもその意気込みが伝わってくる(見えない貧困に苦しむ1000人の子どもを救え!文京区長が「こども宅食」でNPOとの協働を決断した理由)。

この取り組みが成功することを祈る。

一方で、大阪市南部の貧困エリア(西成区ほか)でここ5年ほど仕事をしてきた(高校居場所カフェに学校ソーシャルワーカーもいたりする「学校イノベーション」)僕としては、貧困支援の対象エリアがやはり気になる。

僕は大阪在住なのでいまひとつわからないが、「文京区」といえば、どちらかというと東京23区の中でも裕福なほうだろう。

たとえばこの記事によると、文京区は23区中下から4番目の生活保護が少ない裕福な区なのだそうだ(東京で生活保護が多い区は?)。

ということは、そこでの貧困対策が全国のモデルになりうるか、という問いが浮かび上がる。相対的に裕福なエリアにおいて行なった貧困支援が、東京23区であれば足立区や台東区、大阪市であれば西成区など、日本の大都市における有数の貧困エリアに、その貧困支援モデルが応用できるか、としいう素朴な問いが成り立つ。

■半数が中学受験をするエリア

僕はこの素朴な問いを、足立区や台東区や、僕が日々仕事をしている大阪市西成区の生活支援課(生活保護担当セクション)の担当者たち、あるいはそれらの区でがんばるNPOや社協の人たちに聞いてみたい。

文京区区長は上対談で、このように語る。

【貧困の苦しみは「他人との比較」から生まれます。例えば、文京区だと小学生の半数以上が中学受験をします。小学4年生ぐらいになると「塾に行っている」のが普通なんですよね。塾に行けないことで「なんで自分だけが」という苦しみが芽生えるのです】

小学生の半数以上が中学受験をする。このようなエリアで「貧困支援」に乗り出す感覚が僕にはわからない。僕が通う大阪市南部の「しんどい」(大阪弁~「生きづらい」をやんわり表現)エリアの小学校では、ありえない事態だろう。

半数が中学受験をするエリアでは、貧困層はまずは少数者となる。

そうしたエリアにおいて、たとえば「生活保護」はレアだろうし、シングルマザーもステップファミリーも、児童虐待も児童相談所も一時保護も、DVもPTSDも、すべて珍しい事象だろう。

また、10代出産で生まれた子どもの親権を、別れた夫婦のどちかかがゲットするか、またその10代夫婦は実は親権に主体的ではなく(その背景に軽度の知的障害があったりする)、親権がほしいのは祖父母であり、その欲望がまわりの福祉担当者からすると祖父母の老後介護への欲求(つまり孫に自分を介護してほしい)が背景にあると疑われる、といった事態も、文京区では珍しい事態だろう。

挙げ始めたらきりがないが、これらは、大阪市西成区などでは日常的な事態だし、足立区でも台東区でも同じだと思う。

■「自分もそうだが、友人たちもそう」

ポイントは、こうした貧困に伴う諸問題が、日常的だということだ。それはレアではなく、あちこちにある。

学校であれば、「自分もそうだが、友人たちもそう」な状態にある。

この、一体感、同一感、当たり前感が、貧困問題では重要だと僕は思っている。

中学受験が半数ではなく、相対的貧困が半数、シングルマザーや10代出産と離婚は日常的、DVや児童虐待と児童相談所出動等も日常茶飯事、つまり、貧困とは単に貧乏なだけではなく、こうしたたいへんな状況が当たり前のようにまわりに繰り広げられる事態だ。

そしてそこには、「涙」もあるが諧謔的な「笑い」もあったりする。

つまり、そうした「泪橋」(『あしたのジョー』ですね)的状況がそのへんにゴロゴロ転がっているのが、貧困エリアの日常だということだ。そこでは決して「中学受験が半数」を占めない。

ポイントは、文京区的な「貧困がレア」なエリアにおける事業展開が、区長やNPO代表が想定するように、貧困支援が全国展開していく時の「モデル」になるかどうか、だ。

■文京区的取り組みは他人事

素朴に「文京区をモデルに全国に拡大する」と行政やNPOが語り、それを素朴にメディアが拡散する。

その「素朴な」感覚が、貧困対策は貧困当事者の状況をあまり知らない中流出身者以上が構築しているという皮肉を炙り出している、と僕は思う。

上述したとおり、貧困層が多い貧困エリアでは、身も蓋もないたいへんな事態が日常化している。それらは決して少数派ではなく、珍しい現象でもない。悲惨だが当たり前であり、悲しくて憤るがそればかりではやっていられない、思わず笑い飛ばすしかない事態が日々展開されている。

その「笑い飛ばし」はシニカルでもあり、児童虐待の被害児童が案外シニカルな笑いを好むように(5才にして、皮肉なお笑いマニアのように)、暴力と笑いが日常化する。

そこでは、文京区的取り組みは当然他人事だ。それはおそらく、支援者にとってもそう。西成区やそこで日々奮闘する(あるいは手抜きする)支援者にとって、貧困問題の解決は程遠い。それを解決するには、尋常ではない労力を要する。

そして、そうした貧困が日常/多数派になったエリアにおける「貧困当事者」は、決して当事者として名乗り切れない。また、語れない。

■サバルタンは語れない

当事者は当事者であるほど自覚できない、というのはここでも同じだ。それは僕が以前、G.スピヴァクのテーマである「サバルタンは語ることができるか」を応用して書いたように(「当事者」は語れない~どう「代弁」し、どう「代表」するのか誰が高校生や若者を「代表」するんだろう?)、問題の当事者であればあるほどその問題の当事者であるという自覚をもてないという皮肉を生む。

これは「ひきこもり」問題でも同じだし、19世紀のインド植民地における最下層女性(サバルタン)でも同じだし、現代の日本の貧困層(特に子ども・女性)でも同じだ。

当事者は語ることができない。その苦しみを自覚できないが故に、当事者としいう自覚を持てないが故に。

文京区の貧困当事者も西成区の貧困当事者も語ることはできない。文京区は「レアケース」として、西成区では「多数派ではあるがあまりに込み入った問題の当事者」として、語ることができない。

だからこそ、文京区やNPOには「結果」を出してほしい。できれば、こうしたサバルタン問題(当事者は語れない)を意識しつつ。

だが、このようなサバルタン問題は、実は権力サイドがつくり出している。

19世紀インドであれば、イギリス人やそれにとり入るインド人権力者層がつくりだしている。

そうした権力サイドが、物言えぬサバルタンを創設する。19世紀インドにおけるサバルタンは名をもたず(花の名前等一般名詞に置き換えられている)、死の原因にしろ紋切り的な失恋自殺等に解釈され直す(反権力的サバルタン女性は抹消させられる)。

現代日本バージョンではどうか。行政やNPOが、貧困支援という「サバルタンの抹消」にならないことを祈ります。★

※Yahoo!ニュースからの転載

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