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【日本解凍法案大綱】21章 紫乃の忍びの舎(や)

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牛島信(弁護士)

「電気を暗くして」

紫乃に言われて、高野は我ながら滑稽だと思いつつ、「どこにあるの?」とたずねた。

「そうね、わからないわよね」

紫乃は上半身を起こすと手慣れた様子でベッドサイドのスイッチをひねった。

「ごめんなさい」

このひと言が高野に火をつけた。

(なんて優しい人なのか)

高野にとって、女性の肉体は秘められた部分を含めて、もはや見飽きたものに過ぎない。その肉体に秘められた特定の人の心がその人の肉体を特別のものにするのだ。

(乳房が大きいか小さいかではない。特定の女性に一対の乳房があって、それが気になってならないのだ。大きければ大きいものとして、小さければ小さいものとして。かけがえのない心の女性のものだから、男にとって二つとない大切な乳房になる。一つならその一つがかけがえがない。

人は心、男と女は心)

いつもそう思ってきた。

高野は勃起することができなかった。素知らぬふりをして立ち上がる。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと済まないけれどトイレに行きたくなっちゃって」

「まあ、まあ。

玄関横、向かって左です。どうぞ行ってらして」

隣の部屋に戻るとジャケットの左ポケットを探ってピルケースを取り出す。友人に分けてもらってはいたものの、実際に使ったことはなかった。

水がどこにあるか分からない。高野はトイレの手洗い用のベイスンの上にある蛇口からの水を飲んで済ませた。ミネラル・ウォーター以外の水を口にするのもずいぶん久しぶりのことだ。ましてやトイレの手洗いの水を飲んだことなど、ごく若かった時代の二日酔いのとき以来だった。

ベッドに戻ると、時間を稼がなくてはと思う。薬が効いてくるには一定の時間が必要だと聞かされていたのだ。たぶん30分か1時間。長い、長い。

「ここも会社のもの?」

「ええ。でもどうして?」

「社外取締役は24時間勤務だからね」

「そう。

じゃあ、こうして男性と二人でいる部屋を会社名義にして、管理費も掃除代も家具もなにもかも会社の経費にしているオーナー会長は、どうみえるかしら?社外取締役さん」

紫乃がいたずらっぽく笑う。

「公私混同が目に余る。だから、共同して公私混同をしている社外取締役は直ちに辞任します」

高野が真面目ともつかず言うと、紫乃は、

「ダメ。

安心してらして大丈夫。ここ、明日、私が個人で会社から買い取ります。もちろん、マーケット・プライスで。

未だ少数株主さんのことのご相談がいっぱいあるので、辞任は許しません」

と言いながら、仰向いた高野の唇に上から重なるようにして自分の唇を重ねた。

「とっても柔らかいのね」

満足気な声を出すと、ベッドに並んで横になった。

(いったいこの女性は、分母が何人あるがゆえに俺の唇が柔らかいという統計的な結論が導き出せたのなのか。

いずれにしても女はどれも同じ。

しかし、微妙などこかの違いが目の前の特定の女のいとしさを際立たせる。

と言ってみても、そいつはしょせんこの俺自身のナルシシズムかもしれない。男と女は、どんなに愛し合っていても、分かりあうことはできないままに死ぬしかない)

結局その日、高野は紫乃と結ばれることはなかった。

(彼女と溶け合うはずだった。海と溶け合う太陽。若いころ、なんどもそうしたことがあった。あのころは、陽がまた昇るように、海に沈んだ太陽はまた、何回もきりなく昇るものだとしか思わないでいた。時には一日に何度も昇ったものだ。

あれから何回太陽が昇ったことか。

しかし、今日は昇らなかった)

 

待たせていた帰りの車の後部座席にゆったりと座り、高野はさきほどの紫乃とのときを思い返していた。

(なにもなかったから、こうして落ち着いて自宅に帰ることができる。英子に会えば抱きしめることすらできるだろう。

良かったということになるのか。

それにしても、あの女性はなぜあれほどに俺を?

ストックホルム症候群か?

そうかもしれない。彼女は俺の社団法人に夫を奪われてしまったようなものだ。その上、夫は実は彼女の思っていた夫ではなかったと無理やりのように知らされた。そのきっかけは俺だ。

いや、すべては三津田作次郎なのだろう。20歳の彼女に57歳で男女関係を教えた男。別の男のところへ去り、戻ってきた彼女に会社を贈り物にしてしまった男。俺が作次郎に似ている?なんの意味もないのに、人は声や顔が似ているとなにかを錯覚する。デコイか。

 

紫乃と高野は、ひと月に一度は二人だけで夕食をとるようになった。

店は高野が指定することもあれば紫乃が探し出してくることもある。代金は高野が払う。食事が終われば、決まったルールのように赤坂新坂のマンションに向かう。高野に他での夕食の約束があるときには、紫乃が先に行って待っていることもある。ときには柴乃が簡単な食事を作ってくれるということもあった。

いずれにしても、高野が薬を使うことはない。唇を合わせることもある。抱き合うこともある。手が触れれば、そのままにしていることもある。しかし、それ以上のことは起きない。高野が動かない以上、柴乃も悟ったか、彼女から動きだすことはない。

高野は、あの夜の帰りの車のなかで感じた解放観が忘れられなかったのだ。虎口を脱して、辛うじて罪なくして帰宅することの愉悦が、車が自宅に近づけばちかづけば近づくほど体中に湧き上がってきたのだった。

(危ないところだった。

大津柴乃と深い仲になれば、次に会うことが義務になる。なれば、結局自分の生活の平安を乱す者として紫乃を逆恨みすることになる。身勝手な男?今に始まったことではない。

つまりは、なにが己の人生のなかでの優先事項かという問題なのだ。そう整理してしまえること自体が、もう若さが俺のなかから完全に消えてしまったということなのだろう。昔は自分で自分を制することなどできなかったのに)

高野には自分で自分が不思議でならなかった。

(遂に俺は俺の体のなかにあった性の衝動という奴を飼いならしたのか。いや、単に歳をとっただけなのか。

「70歳になると底流にいつも性欲があった世界を離れたような解放感がある」と山田太一が書いていたっけな。

なんにしても、単なる茶飲み友達でいけない理由はない。社外取締役たる男には、なんともふさわしい役回りだ。そのうちにそうでなくなるかもしれない。それはそのときのこと。

たぶん、彼女も高野との性関係を強く望んでいたのではないのだろう。

大事なことは、高野がすがりついても良い男だと確認すること。

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