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香港の大学が助教に1600万払う理由

前回のエントリー「大学教員"1600万貰えるから海外移籍"から考える頭脳流出問題」では日本からの頭脳流出全般について書いた。

この問題が注目を浴びて分かったことの一つは、日本国内だけを見ている一般の人には世界が専門家に払っている給料水準がよく分かっていないということである。そこで今回は香港の大学がなぜ助教に円換算で1600万円も払うのかということを少し詳しく書いてみようと思う。

(1) 経済学者の給与水準

圧倒的な規模を誇る米国の大学産業では、給与水準は分野毎に決まる。医学部、ビジネススクール、ロースクールなど他の労働市場で付加価値の高い分野の教員の給与が圧倒的に高く、エンジニアリングスクールや経済学科などがこれに続く。

米国の経済学科で博士新卒のテニュアトラックに支払われる9ヶ月分のサラリー(米国の大学では9ヶ月契約が一般的であり人によっては外部からの資金を獲得して追加で1〜2ヶ月分の上乗せがある)は、研究大学の平均で11万5千ドル、上位30校では13万6千ドルである(出典:アーカンソー大レポート)。これは3年前の数字であり、こうした分野の給料は近年高騰しているので来年度は1万ドル程度の上乗せと考えるのが自然だろう。したがって、川口氏が得た14万4千ドルというオファーはおおよそ米国の上位校に匹敵する水準だと言う事ができる。

英語圏の他国のサラリーも米国との裁定が働くが、それでは他の国はどうだろう。中国の一流大学では助教の年俸は30〜40万元程度だという。米ドルに直せば5万ドルくらいになる。米国に比べるとだいぶ安いが、中国の物価は地域による違いはあるものの大雑把にいえば米国の半分くらいである(IMF調べ)。したがって購買力としてはやはり米国の大学と同程度ということになる。また国内の平均所得との比で言えば中国の大学の方が賃金は高いとも言える。

(2)ビジネススクールという環境

同じ経済学者でも、ビジネススクールでは経済学科より更に高額のオファーが貰えるというのが一般的な認識だろう。資金の出所はMBAの学生などが払う高い学費や、卒業生や企業から集まる寄付金である。

一方で、この上乗せの代償もある。高い授業料を払うMBAの学生は授業内容には非常にうるさいことで有名である。彼らのほとんどは学問に興味がないので、分からない授業や自分に役に立たなそうだと感じれば、学問的な価値とは関係無しにすぐに文句を言う。したがって、授業準備もビジネススクールで教える方が大変だろう。

経済学者であれば、できれば経済学に興味を持っている学問的に優秀な学生に教えたいと思う人の方が多いだろうから、需給の面でもビジネススクールの給与は高くならざるを得ない。

また教員に対する英語の要求水準も、経済学科に比べれば格段に高い。「私たちは下手な英語を聞くために高い授業料を払っている訳じゃない」という訳だ。香港やシンガポールのような中華圏の大学ではそこまで高くはないが、それでもアカデミックな学科に比べると高いはずである。

(3)初年俸が重要

これは特に米国で顕著な傾向だが、良い人材を獲得するために初年俸を高く設定することが多い。逆に言えば一旦雇われてしまえば、その後の昇給は限定的なものになる。近年、大学教員の獲得コストは高騰しているので、何年か大学にいる准教授の給料が新任の助教の給料より安いというような逆転現象も見られるのである。これは年功序列の日本とは違うところである。

一方で、英語圏でも昇給のチャンスがないわけではない。スター教授には引き抜きがかかり年俸は高騰する。実際に移籍しなくてもオファーを貰い本気で移る気があれば、カウンターオファーで同額を提示する大学が多い。そうやって実力の高い人の給料は上がっていくのだ。

(4)人材流出問題を抱える香港

いくら香港の大学は世界的評価が高いとは言っても、14万4千ドルというオファーが米国対比でもやや高額であることは確かだろう。これは米国対比で香港の人気が低いということに起因している。

同僚の老教授によれば97年に香港の中国への返還が決まって以降、政治的な不安定さを嫌気して、香港から大量に人材が流出した。そこで香港の大学は給与を引上げて人材を引き留めた。シンガポールの大学の給与が高いのも、香港に対抗して引上げたことが理由だという。

欧米人は同じ英語圏でもアジアに来ることを好まないし、ましてや香港は英語が問題なく通じるのは大学やビジネス街の中心だけで、事実上の中国語圏だ。中国人の米国留学生も母国が好きな人ばかりではなく、できれば米国に残りたいと思う人の方が多い。

それに加えて、こどもを持つ人にとっては教育の問題もつきまとう。中国返還後の香港の公立学校では中国語で教育が行われているので、インターナショナルスクールに通う必要があるが、その数は不足気味だという。特に歴史的経緯からアメリカンスクールは少なくブリティッシュスクールがメインになる。こうした教育環境の問題から赴任を断る外国人は少なくないそうだ。

香港が日本人研究者に人気なのは、こうした特有の問題があまり障害にならないことが影響しているだろう。英語の壁が低いのは日本人にはありがたい。地理的にも食文化も町並みも日本に近くて生活しやすい。いざとなれば、日本に帰る手があるので政治的な不安もそこまでない。子供の教育もインターが難しければ香港日本人学校という選択肢もある。

このように見ていくと、今回の川口氏のケースは幸運ではあったかも知れないが、それほど特殊な事例ではないということが理解できると思う。

確かに日本には大学教員になりたいという人はわんさかいるので、人材が海外に流出したからといって大学の授業ができなくなるほどの事態にはならないだろう。だが、もし日本の大学の研究者の質を維持・向上させたいのであれば、もはや日本の国立大教員の待遇を叩いている場合ではないのである。

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