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フランス大統領選「極右」ルペンの実像(1)父ジャン=マリーの「変身」

 4月23日に第1回投票が行われるフランスの大統領選挙には、マスコミで連日取り上げられる有力候補5人のほかに6人が立候補している。4月4日、この全11候補が一堂に会したテレビ討論会が行われた。

 極右政党「国民戦線」(FN)党首のマリーヌ・ルペン(48)大統領誕生でBREXIT(英国のEU離脱)につづいてFREXIT(フランスのEU離脱)か? いよいよEU崩壊か? と言われる。だが、この日激しくFREXITを唱えたのは、いわゆる泡沫の元財務省監査官フランソワ・アスリノー候補(59)だった。

 ルペン候補のマニフェストには、国家主権回復のためEUおよび加盟各国と交渉した後にEUへの所属についての国民投票をする、とだけ書かれている。この日も、その考えを繰り返した。これに対してアスリノー候補は、「キャメロン(英前首相)のマニフェストだ」と批判した。たしかに、主権回復とは国境検査の復活や共通通貨ユーロからの離脱、難民受け入れ拒否などで、すでに英国では実現しており、キャメロン前首相はその上にたって自国に有利な要求をつきつけて妥協を引き出し、国民投票をしたのだった。ただし、EU残留のために。

 もちろん、交渉で満足が得られなければ、EU離脱の国民投票となるだろう。だが、一定の成果を得たら? おまけにかつて、ド・ゴールが議会・地方行政改革案の国民投票で負けたために大統領を辞任(1969年)したという前例がある。シラクは2005年に欧州憲法が否決されたとき、EUの問題だからといって辞任を拒否したが、EU離脱は100%自国の問題である。果たして、国民投票まで持ち込むかどうかも疑わしい。

「極右」「ポピュリスト」「反EU」とレッテルを貼れば物事はわかりやすくなる。だがそれは本質から目をそらすことである。

 マリーヌ・ルペンはドナルド・トランプではない。その背後には父娘2代にわたる歴史があり、確固たるブレーンがいる。今を理解し、将来を誤らないために、改めてFNを先入観なしに見つめてみるべきであろう。

「黒い眼帯」に「鋭い眼光」

 FNは1968年の五月革命の左翼に対抗する右翼学生運動(「オクシダン」→「オルドル・ヌーヴォー」)と、アルジェリア戦争の時の反ド・ゴール派(とくに、独立に反対して叛乱を起こした駐アルジェリア仏軍の秘密軍事組織OASと引揚者)を主体として、1972年に設立された。

 かつて小学校の国語教科書には必ず出ていた小説『最後の授業』の作者ドーデも参加していた王党派(王政を支持する政治党派)の国粋主義政治団体「アクション・フランセーズ」や、第2次世界大戦の対独協力者などの「旧右翼」に対する「新右翼」である。反王党派であり、共産主義のインターナショナル(労働者階級の団結と開放を目指す国際組織)に対抗したナショナリスト・インターナショナルを標榜し、モデルとしたイタリアのネオファシスト政党「イタリア社会運動」(MSI)などと連携した。

 その党首に迎えられたのが、当時44歳のジャン=マリー・ルペンだった。第2次世界大戦後パリの大学で法学を学び、アクション・フランセーズに参加。1954年のインドシナ戦争で精鋭パラシュート部隊に志願。帰還後、商工業者や農民の税への不満を背景に登場したプジャード運動(税の不払い)の一員として、当時最年少の27歳で国会議員になった。しかし、特別許可をもらってアルジェリア戦争(フランス領からの独立を目指したアルジェリアの内戦、1954~1962年)に半年間、仏軍のパラシュート部隊に従軍した。帰国した後、「フランス領アルジェリア宣伝隊」を組織して全国遊説もする。国会議員としては一度再選されるも、1962年には落選。1965年の大統領選挙では、OASの国家反逆罪裁判で弁護士を務めたティクシエ=ビアンクール候補の選挙対策本部長となった。それを最後に政治の舞台からは退いていたが、この輝かしい経歴から7年ぶりに呼び戻されたわけである。

 当時のルペンは、左目にはトレードマークの黒い眼帯、右目の眼光も鋭かった。ユダヤ人や難民移民に嫌がらせする短髪に皮ジャンの若者、「労働の自由」の名のもとに鉄片や部品を投げて殴打するスト破り、小説・映画『ジャッカルの日』で有名なド・ゴール暗殺未遂事件や、プラスチック爆弾で正確に目標を爆破するプロフェッショナル・テロリスト……、その風貌は、このような「極右」のイメージにぴったりだった。

 しかしながら、翌1973年、母体である右翼学生運動「オルドル・ヌーヴォー」が左翼との暴力沙汰により政府命令で強制的に解散させられてしまった。さらにその翌年には、路線対立とルペンによる党の私物化で分裂してしまう。分派は、「若い力党」(PFN)を結成した(イタリアのMSIはこちらと連携)。

 極右陣営内の抗争は激しく、1976年秋にはルペンの自宅が爆破され、1978年にはFNきってのイデオローグといわれたフランソワ・デュプラが自動車の爆破で死んだ。その後も1980年にかけて極右団体の爆破や放火事件が頻発した。

金髪で優しく微笑み

 フランス現代史に重要な役割を果たしているにもかかわらず日本では無視されがちな右翼の実態を探ろうと、1979年に私がはじめてFNの事務所を訪れたときも、まだピリピリした雰囲気があった。

 ずんぐりした髭面の広報部長から「タンペット・ド・プランタン(春の嵐)を知らないか」と聞かれた。ピンとこなかったので「知らない」と答えると、「日本の若い国会議員の団体で、我々は興味をもっているんだが……」と残念そうだった。あとでわかったのだが、「春の嵐」とは、石原慎太郎や故・中川一郎など当時の自民党右派の若手議員の会「青嵐会」のことだった。


1984年の欧州議員選挙当時に出版された自叙伝。表紙の顔は、すでにイメージチェンジを図っていた(著者提供)

 新書版をひとまわり大きくした160ページほどの本を渡された。1978年末に出版された『右派と経済民主主義』という経済・社会ドクトリンで、ルペン党首の前書きには、「労働者が競馬新聞のかわりに経済紙を読むとき、彼らが貯金を宝くじや普通預金のかわりに証券取引所で運試しするとき、階級闘争は葬られ、真の国民連帯が復活する」とある。徹底した国家介入反対、新自由主義を主張していた。サッチャー首相やレーガン大統領誕生の前夜であった。激しい移民排斥運動や暴力事件の陰で、着々と反共主義、新自由主義の先端の位置を占めようとしたのである。

 社共連合政権に変わった1981年夏には、マルセイユの予審判事暗殺容疑でド・ゴール派極右のSACが強制解散させられ、翌82年にはライバルのPFNが空中分解した。こうしてルペンのFNだけが残った。とはいえ、FNも必要な推薦人署名を集められず大統領選挙の出馬を断念、ミッテラン大統領誕生直後の総選挙では、全国で77候補しか立てられなかった。

 ところが、1983年、統一市町村選挙で異変が起きた。FNは、文字通りのイメージチェンジをした。パリ20区から立候補したルペンのポスターは、軽く金色に染められたオールバックの髪で優しく微笑んでいた。そして11.26%の票を得、市会議員になったのである。また、ノルマンディのドルー市(人口3万3000)ではシラク派と選挙協力が実現し、デュプラに代わるFNのイデオローグ、スティルボワが副市長になった。

 翌1984年6月の欧州選挙は、フランスでの通常の小選挙区2回投票制とは異なる全国を1区とする(現在では8区に分割)選挙で、社共連合政権下で最初の全国民を対象に民意を問う機会であった。欧州議会の選挙であるにもかかわらず、FNは徹底的に内政批判をした。「まずフランス人を」「200万人の失業者は、200万人の余計な移民のせい」……かくして、共産党と同数の10議席を獲得したのであった。(つづく)

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