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もう一つの「拉致事件」 ―23年振りに「里帰り」したベトナム女性を待ち受けたもの― - 坂場三男

 ベトナムでは「悲劇」が路傍の石のように至る所に転がっている。まるで日常生活の一部のようで人々は関心を向けないが、今回ばかりは違っていた。連日のように地元メディアが報じ、多くの人がその過酷な運命に涙した。

 1994年4月のある日、ベトナム中南部沿岸地方クァンナム省の小さな村に住んでいたファム・ティ・バウさん(当時30歳)は、近隣省へ果物を売りに行くため乗り合いバスで移動中に拉致(誘拐)され、中国に売られた。既に結婚して二人の息子を授かり、貧しいながらも幸せに暮らしていたバウさんの人生はこの事件によって突然暗転した。山西省北流市の人里離れた村に住む男性が仲介業者から彼女を2千元で買ったのだという。場所も言葉も分からず何の身元証明の手段もないバウさんは、逃げることも出来ず、そのまま23年の歳月を寒村で暮らすことになる。この間、子供も生まれ、もう一つの「家族」に囲まれて、ベトナムでの記憶が日々薄れて行った。

 転機は去る2月に訪れた。中国人の子供も成長し、極貧の生活から抜け出した折、突然に里心を起こしたバウさんは、夫に懇願してベトナムへの帰国を実現する。

 23年振りに故郷に戻った彼女を待ち受けていた者は老母一人で、夫は失踪し、誘拐時に3歳と2歳だった2人の息子の行方も分からない。実は、この2人の子は事件後にダナン市の孤児院に預けられ、カナダ人夫婦に養子として引き取られて、立派に成長していた。このカナダ人によれば、養子縁組は兄の幼児1人だけと考えていたが、引き取りの段階で弟と別れたくないと泣き叫び激しく抵抗したため止む無く兄弟共に養子とした由である。最近に至り、彼らは23年振りに里帰りした母のことを偶然に報道で知り、この3月にカナダからベトナムに一時帰国して再会を果たした。

 ただ、カナダ人となった2人の青年はベトナム語を話すことが出来ず、通訳付きの会話しか出来なかったが、母の胸に抱かれてただただ泣き続けたという。この話はベトナム中に報道され、多くの人の涙をさそっている。(今、バウさんは中国人の夫と共にベトナムに移住して老母と同居することを決意し、関係者に支援を求めている由である。)

 以上の話は、ベトナムと中国との間にある何千、何万という拉致・人身売買事件の1つに過ぎない。一人っ子政策を続けてきた中国では男女比の均衡が崩れ(男6人に女5人の割合)、農村に住む貧しい男性の場合、嫁の来てが殆どないという。このため、1990年代末頃から嫁の斡旋業者が登場し、誘拐犯と結託してベトナム女性を拉致するという事件が頻発している。

 ベトナム婦人協会が4年ほど前に発表した数字によれば2010年~12年の3年間に発見された人身売買事件の被害者は女・子供合わせて2325人に上り、その6割近くが中国に売られたと見られている。2015年~16年上半期の1年半にもベトナム女性88人の被害が確認されている。

 もう一つ、深刻なのは、中国と国境を接するベトナム北部山岳地域における男の乳幼児誘拐で、これも多くの場合に一人っ子政策の下で跡継ぎとなる男児を求める中国人家庭に売られているようである。

 ベトナムと中国の隣国関係は2千年前の昔から支配・被支配を繰り返し、戦争に明け暮れた困難な歴史を辿っている。今も南シナ海の領有権をめぐる紛争を抱えているが、人身売買の被害も同様に深刻であり、バウさんの事例のような「悲劇」が絶えないのである。
坂場三男(さかば みつお) 
1949(昭和24)年、茨城県生れ。1973年横浜市立大学文理学部文科卒業。同年外務省入省。フランス、ベルギー、インド、エジプト、米国(シカゴ)等に勤務。外務本省において総括審議官、中南米局長、外務報道官を歴任した後、2008年駐ベトナム国駐箚特命全権大使。2010年イラク復興支援等調整担当特命全権大使。2012年から駐ベルギー国駐箚特命全権大使。ベルギーの日本大使館HPの「大使のよもやま話」は日本やベルギー国内のみならず、欧州各国にも多くのファンを持つ超人気の随筆となっている。2014年9月、外務省退官。

現在、JFSS顧問、横浜市立大学教授、茨城キリスト教大学客員教授、MS国際コンサルティング事務所代表として民間企業・研究機関等の国際活動を支援、複数の東証一部上場企業の社外取締役・顧問を務める。

著書に『大使が見た世界一親日な国 ベトナムの素顔』(宝島社)等がある。

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