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境界線と死者たちと狐のこと

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村上春樹の新作『騎士団長殺し』を読んでいるうちに、村上春樹と上田秋成について書いた文章があったことを思い出した。

もうだいぶ前に書いたものだ。たしか『文學界』に寄稿したのだと思う(違うかも知れない)。江藤淳が上田秋成について書いていたものをちょうどその直前に読んでいたので、上田秋成~江藤淳~村上春樹という系譜を考えてみた。

上田秋成と村上春樹の関連については論じた人がいくらもいると思うけれど、江藤淳をまじえた三者を論じたのはたぶん僕の創見ではないかと思う。

『騎士団長殺し』はまだ上巻が終わったところで、これからどうなるかわからない。

もしかすると、ここに書いたような話になるのかもしれない。そう思うとどきどきする。

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹)について

小説を論じるときに「主題は何か?」というような問いから始まるアプローチはずいぶん時代遅れのものだ。私の定かならぬ記憶では、1960年代の批評理論によって「主題」や「作者の意図」を論じる批評にはすべて死刑宣告が下された。テクストは作者から自立しており、それはポリフォニックな間テクスト性の戯れの場なのである云々。そういう言葉を私たちはずいぶん読まされてきた。

それでも相変わらず「作者はこの作品を通じて何が言いたいのか?」という問いは作品を論じるときの最優先の地位をいまだ譲っていない。これはたぶんに著作権というものの現実的効果なのだろう。作品の生み出す経済的価値を専一的に享受する「オーサー」はテクスト理論がいかに否定しても、法律上厳然と存在している。作品がたくさん売れると経済的利益に与る人間がいるのだとすれば、作品はある種の「商品」だということになる。そうであるなら、作者は当然ながらおのれに利益をもたらす商品についての「製造責任」を負わねばならぬ。スペックを公開し、製造過程を明らかにし、賞味期限や「使用上の注意」も開示しなければならない。

高踏的な批評理論も最終的にはこのビジネスモデルの前に屈服してしまった。今回の村上春樹の新刊発売についても、書評より先にまず発行部数についてのニュースが大きく報じられた。「爆発的に売れている新商品」という扱いである。そうであるなら、「この商品にはどんな価値や有用性があるのか?」という問いが続くのは自明のことである。

だから、どれだけ死刑宣告をされても、製造者に製造責任を問うタイプの批評はエンドレスで続く。今でも書評家たちはまず「村上春樹はこの新刊を通じて何を言いたいのか?」という問いから始める。作家はこの作品の「材料」をどこから集めてきたのか?それを処理する「方法」はどのような技法的伝統に連なるのか?これまでの他の作品とこの「新製品」はどう差別化されるのか?あるいはマーケティングの用語を借りた「この作品のターゲットはどのような層か?」「この作品のどの点が消費者たちの欲望に点火するのか?」などなど。

村上春樹が大嫌いで、頭から批判的に彼の小説を読む人たちもまたそれとは逆のしかたで定型的な問いに縛り付けられている。「この作品が構造的に見落としているものは何か?」「作者はそれと知らずにどのような臆断やイデオロギーを内面化しているか?」「どのような歴史的制約ゆえに作者はこのようにしか書けなかったのか?」などなど。

いずれの場合も、作品は作者の「所有物」であり、(意識的であるか無意識的であるかにかかわらず)その「自己表現」であり、それゆえに作者には作品に対する「責任」があるという前提は揺るぎない。

私は今回、懐かしい60年代の批評理論に立ち戻って、もう一度だけ「作者は作品に対して責任がない」という立場からこの作品を読んでみたいと思う。

作者は作品に先立って「何か書きたいこと」があって書き始めたわけではない。政治的信条であれ、宗教的信念であれ、審美的価値であれ、個人的なトラウマであれ、そういう「核」になるものが作者の中に先行的にあって、それがある技術的な手続きを経て言語表現として「発現」したわけではない。そう考えることにする。これはあくまでひとつの仮説である。たまにはそういう仮説に立って作品を読んでみるのもいいんじゃないかという程度のカジュアルな仮説である。

村上春樹は日課的に小説を書いている。これはエッセイやインタビューで、本人が繰り返し証言していることである。鉱夫が穴を掘るように、作家は毎日小説制作の現場に「出勤」し、そこで一定時間、穴を掘る。金脈を探す鉱夫と同じように。日々穴は掘った分だけ深くなるけれど、鉱脈にはめったに堀り当たらない。何十日も掘り続けたが、何も出なかったということもたぶんあるのだろう。でも、いつか鉱脈に当たると信じて、作家は掘り続ける。

村上はこの態度についてはレイモンド・チャンドラーの執筆姿勢を範としていると述べたことがある。チャンドラーは毎日決まった時間タイプライターに向かった。彼が自分に課したルールはそこでは「書く」以外のことをしてはいけないということである。本を読んだり手紙を書いたりしてはいけない。書くことが思いつかなかったら黙って座っている。決められた時間が来たら、どれほど「乗って」いても、筆を擱いて、その日の仕事は終わりにする。粛々と聖務日課を果たすよう執筆する。

それについて村上自身はこう書いている。

「生まれつき才能に恵まれた小説家は、何をしなくても(あるいは何をしても)自由自在に小説を書くことができる。泉から水がこんこんと湧き出すように、文章が自然に湧き出し、作品ができあがっていく。努力する必要なんてない。そういう人がたまにいる。しかし残念ながら僕はそういうタイプではない。自慢するわけではないが、まわりをどれだけ見わたしても、泉なんて見あたらない。鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」(『走ることについて語るときに僕の語ること』、文藝春秋、2007年、64-65頁)

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