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『日本解凍法案大綱』5章 譲渡承認請求 その2

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牛島信(弁護士)

ふと、高野は川野夫妻に子どもがいなかったことを思い出した。

川野純代が当然のように持参したハンコを押し終わったところで、高野は、

「おばちゃん、墨田鉄工所の株を買い取るには会社の承認がいるんだそうです。弁護士に聞いたことですから、間違いありません」

「え?じゃあの株は売れないの?誰にも買ってもらえないかもしれないの?」

川野純代が小さな悲鳴のような声をあげた。

「いえ、そんなことはありません。株ですから立派に売れます。大丈夫です。

弁護士が言うには、会社には譲渡を承認するかどうかを決める権利があって、もしも譲渡先、つまりこの私が新しい株主になることが気に入らなけければ、私じゃなくて、こちらに買ってもらうようにとおばちゃんに指示ができるんだそうです。でも、承認しないときには必ずどこか売り先を決めなくってはいけないので、おばちゃんの株は必ず売れるんだそうです。

ですから、私でなくっても会社か会社の指定した第三者が必ず買ってくれます」

川野純代は高野の説明に少し安心したようだった。

「いやだ、なにがなんだかわからないじゃないの。

そんなことより、ね、敬夫さん、あなたが引き受けました、買うって言ってちょうだいね。なにもかもお任せしますから」

「ええ、私もそのつもりです。おばちゃんには親子して本当にお世話になりましたから」

「そんなつもりで言ってるのじゃないのよ」

「わかってます、わかってます。

私も弁護士に任せています。

その弁護士が言うには、墨田鉄工所は十中八九、私がおばちゃんの株を買って、新しい買主になることを承諾してくれないだろうって言うんですよ。なんですか、こういう同族会社の株の売買というのは難しい手順が法律にあるようで。ですから、おばちゃんと私との売買は実現しないと弁護士が言うんです」

「え、じゃあやっぱり」

また純代の声がすこしくぐもった調子になっていた。

「安心してください。誰かがかならず買うんです。株ですからね。

株というものは、第三者に売れることが当然なんだと私の弁護士が言ってました。手続きが込み入っているだけです。でも、弁護士がぜんぶやってくれるんです。私たちは横から見ていればいい」

「でも、あなたが買ってくれるわけじゃないのね。

それに、お時間がかかるのかしら」

川野は手元の膨らんだハンドバッグを胸に引き寄せた。高野はその動きにチラッと目をやると、微笑みながら。

「大丈夫、おばちゃん。

だから今日、お金をお渡ししました。それは最終的に誰が買うことになっても、もう返していただかなくて結構なお金です」

純代はハンドバッグを引き寄せていた腕の力を緩めた。高野はそれには気づかなかったふりをして、話を続けた。

「いいえ、私はすこしも構いません。私としては誰が買い手になっても構わないのです」

川野純代は少し驚いていた。どうやら高野がなにを言い出すのか警戒している風だった。

「とにかく、この500万円を受け取っていただいて、あとは法的なことですから、すべて弁護士に頼みましょう。私もそうするつもりです。私の古くからの友人である大木忠っていう名前の弁護士がやってくれます。信頼できる男です」

川野純代の表情がまた曇った。自分がなにかしら厄介なことに巻き込まれるらしいと感じたのだ。

高野は言葉を足した。

「もちろん弁護士費用は500万円とは関係ありません。

だいじょうぶ。弁護士の金はいっさい私が負担します。おばちゃんにご迷惑はかけません」

「でも、私、なにがなんだか。こんなおばあちゃんですし、難しいことはなにもわからないの。

敬夫さん、私、別にこの株を売らなくっちゃお金に困るとかいうんじゃないのよ。

たまたま主人が遺してくれた資産を整理していたら、いえね、あの人、お金を稼ぐこと以外に趣味がないっていうか、仕事だけが人生っていう人だったでしょ。だから、未だにいったい何を遺してくれたのかも、私、よくわからないでいるの。よく自分の財産がどこくらいあるか分かっているうちは大した金持ちじゃないっていうけど、本当ね。私には、なにがなんだかわかんないの。会社は義理の甥のものになってしまったし。

とにかくこの株が出てきたから、ああこんなのも手元にあったのかっていうだけ。

でも、持っていても仕方ないからどなたかにお譲りできれば、っていうこと、それだけなのよ」

高野は、目の前に座っているどぎつい化粧をした老女の言葉がすべてウソだと知っていた。彼女は金に困っているのだ。それも500万の金がすぐに必要なほどに。

借金だった。それに間違いない。高野のこれまでの人生経験はそう教えてくれる。

人は借金の取り立てにでも遭わなければ、無理な金策に走ったりはしない。売るものがある人間はまだいい。なにもなければ詐欺でも強盗でもすることになる。

だが、高野はそんなことなどおくびにも出さない。墨田のおばちゃんは、高野の母親が子どもに食べさせるものにも事欠き、腹を空かせて泣いている我が子のために身を売ろうにもそれすらもできないほどに体が弱くて困り果てていたときに、何回も親子を助けてくれた人なのだ。もし墨田のおばちゃんがいなかったら、高野の母親は10歳だった高野を道連れに無理心中するほかなかっただろう。もしそうなっていれば、高野はいまこうしてこの世にいることはなかったのだ。

そうしたことがあればこそ、母親が墨田のおばちゃんを助けてやっくれと頼んでいることを、高野はよくわかっていた。10歳の子どもだったのに、どうして母親が男を相手にした仕事に就いているとわかったのか。それも、飲み屋などという水商売ではなく、もっと直截な不特定の男相手の商売だったとまで。

あのころ、母親は病気がちだった。たいていは床に伏していて、ときどき念入りに化粧をすると出かけて行く。何時間かすると戻ってきて、帰り道に買ってきた高野の大好物の魚肉ソーセージで夕食を作ってくれた。鼻歌を歌いながら刻んだキャベツといっしょにフライパンをかき混ぜている母親の姿が、子どもながらとてもうれしくてならなかった。いい匂いがした。やっと空腹が満たされるときがやってきたという喜びもあったが、やはり母親が傍にいて、楽しそうに鼻歌まで歌っているのが子ども心に安心を誘うのだった。だから、調理をしている間も割烹着を着ている母親のお尻にすがりついて紐の端をつかんでいた。

高野の子ども時代というのはそんな時の連続だったのだ。

母親は、ひどく体の具合が悪いのか、布団から立ち上がることもやっということもあった。そんなときには、さして化粧もしないで、ふだんの格好のまますっと出かけていくのだ。

そうやって出かけたときには、1時間足らずで戻ってきた。ほんの少しの外出なのにひどく疲れてしまっていて、高野にご飯を用意してやるだけでやっとといった様子だった。

料理は簡単な目玉焼きのことが多かった。小さなちゃぶ台の上に細く切ったキャベツと目玉焼き、それにご飯をよそった茶碗を載せると、母親はまたちゃぶ台のすぐとなりに敷かれた布団に横になっていた。高野が小さな脚を二つに折って座り、「いただきます」と箸を両の手にはさんで声を励ますと、大きな溜息が聞こえてくる。振り返って母親を見ると、母親は布団のなかでなにものかに両手を合わせて涙をながしていた。

それが母親の墨田のおばちゃんへの感謝の祈りだったのだと分かったのは、高野が子どもを持つようになってからだったような気がする。

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