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『日本解凍法案大綱』 5章 譲渡承認請求 その1

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牛島信(弁護士)

高野は大木の事務所からの帰り、さっそく車中から川野純代に電話した。母親を通しての話はしていたが、直接には未だ話をしていなかったのだ。

待ちかねた老女の弾んだ声が小さなスマホ越しに返ってきた。

とにかくお会いして、と言うと純代は素直に喜んで、いつでもどこへでもお伺いしますと応じてくれた。重ねて高野が、そのときにお金をお渡しするつもりだと言うと、スマホの向こうからはっきりと、はい必ず株券を持っていきますからどうぞよろしくという声が一段と大きく高野の耳に響いた。

会う日時と場所を決めてから高野が、その場でお金をお渡しさせてくださいと最後にもう一度付け加えるともう純代はすっかり上の空だった。お金が、それも現金が即刻に貰えると分かれば、ほかはどうでもいいようだった。

高野にとって、墨田のおばちゃんといつも呼んでいた女性、川野純代に会うのはいったい何年ぶりのことだったか。高野が大人になってからもときには母親のところを訪ねているようで、そんなときに顔があえば簡単な挨拶くらいはしたことがあった。しかし、それ以上のことはない。

もう長い間会ったというほどの記憶はなかった。ご亭主の葬式にも高野は出席していなかった。それほどの関係ではなかったのだ。とにかく、金を持っているということが外からも分かる外観で、馬面という言葉があるがそう呼びたくなるような長い顔に塗れるだけ塗ったという化粧をしていた記憶があった。着るものも周囲があっというようなものを自慢気に身に着けていた。

(会社に入ったと決まったときに、お祝いに背広をあつらえやるからと日本橋の三越に連れて行ってくれたことがあった。たぶん、そいつが最後なのではないか。もしそうなら50年近くも前のことになる。してみると、人の声というのは年齢によってそれほど変わらないものなんだな)

先ほどの電話での若やいだ声を思い出しながら、高野は背広をあつらえてくれたときの墨田のおばちゃんを思い出していた。大きな紅色や緑色や藍色の宝石の指輪、ダイヤモンドの首飾り、派手な、シャネルとおぼしき衣装。40歳を過ぎたばかりだったはずの墨田のおばちゃんは、香水の匂いにすっぽりと包まれた女性だった。黒い背広を着た三越のそれらしい中年の男が、墨田のおばちゃんの姿に気づくなり駆け寄ってきて腰の低い挨拶をした。当時の彼女にはそういう暮らしが日常だったのだ。

いずれにしても、高野への就職祝いの背広代も当たり前のように会社の経費として落とされたに違いなかった。もっとも当時の高野にはそんなことの意味がわかるはずもなかった。ただ、周囲の新入社員が安物の既製の背広を着ているなかで、英国製のテイラー・メイドの背広を一着に及んでいた高野は、少しだけ鼻が高い気がしたのを覚えている。なんでそんなことが自慢だったのかと、いまでは滑稽な記憶でしかなかったが。

昭和40年代のなかばのことだ。40年以上前。高野が会社に入ってすぐに田中角栄が総理大臣になって、列島改造を唱えていたら石油ショックが起きて狂乱物価になってしまった。だが、墨田鉄工所の事業はまだまだ盛んだったのだろう。あるいは、妻である彼女がなにも知らなかっただけで、会社の事業は左前だったのかもしれなかったが、とにかく妻の浪費を支える程度には会社は無事に続いていた。3年後、ロッキード事件で田中角栄が逮捕されても墨田鉄工所は店を開いたままだった。

高野は、母親と小学校の同級生だったと聞いていた。川野純代がいたので今の自分がいる。こんどの株の話で、高野の人生にとっても大恩人なのだと母親にさとされた。そうだったのだ。母親にとってたぶん思い出したくもない過去につながっている。小学校を出て運命が右と左にくっきりと分かれてしまった女友だち同士。高野は、あらためて結婚してすぐに離婚しなくてはならなかった母親のそれからの人生を顧みてみた。

子どもがいればこそ。いつもそう言っていた。その子ども、高野は順調に大きくなり、成人し、冒険のあげく成功した男になっている。

高野は、気を使って、川野純代を自分の会社の事務所に呼びつけることはしなかった。ホテル・オークラが若いころからの高野のお気に入りだったから、ロビーで会いその別館のコーヒー・ショップに誘うことにしたのだ。

オークラは本館の建替え工事中だったから、高野は電話で川野純代に対してくどいように「オークラの本館は取り壊しているので、別館の方ですからね」と繰り返した。それでも心配で、スマホの番号を教え、ロビーの見事な八重桜の活け植えの前で、マナーモードにしたスマホを握って立っていた。木の板に石草流とあった。

あの墨田のおばちゃんは、いったいどんなになってしまっているのか。

昔の恋人と長い間をおいて会うのとは異なった、奇妙な興味のようなものが高野の胸にあった。川野は年を取るにしたがって、ただでさえ濃かった化粧がますます濃くなってきていたが、高野は、女性の化粧のしかたというものはが実は年齢を重ねても基本は変わらないものだと知っていたから、まさか見間違えるとは思わないでいた。それに彼女の場合はますます塗りが厚くなっていて、周りから浮き上がっているに違いなかった。化粧をしているからわからないのではなく、化粧をしているから直ぐにわかるだろうと思っていた。

案の定だった。88歳の女性がこんな強烈な香りの香水をつけるものだろうか、という匂いが、彼女を先に立ててコーヒーショップへ案内する高野の鼻をついた。洋服を着ているが、デザインも柄も20年は昔のものだった。靴は老女のものとは思えない、10センチ近くはありそうなハイヒールを履いていた。そういえば、墨田のおばちゃんは背の低いことを気にしていたと思い出して顔には出さずに微笑んだ。

(ああ、新しいものを買うことができないのか)

高野は納得した。

目で席を探していると、高野が顔馴染みのウェイターがすぐに気が付いて近寄ってきた。

ウェイターが川野純代のために椅子を引き、座らせた。それを見届けてから、高野は自分で自分の席に座った。

向かい合わせに座ると、挨拶もそこそこに高野は黒い小ぶりのカバンを引き寄せた。現金を入れてきたのだ。100万円ずつ銀行の帯封のついたままの札束が5つ、ひとつずつ銀行の封筒に入っていて、全体が紫の袱紗(ふくさ)に包まれている。むき出しの現金を持つことは高野の趣味ではないのだ。いわんや、相手に札束を裸で渡すことなど考えたこともなかった。

(別に金の価値に変わりもなかろうが)

中味のない時候の挨拶や無意味な過去の思い出話はかえって失礼にあたると高野は思っていた。川野純代と高野の間には語るべき共通の過去はないのだ。もし語るとすれば、高野の母親の恥ずかしい過去しか出てこない。まだあった。運命が逆転してしまった、この30年の川野純代と高野の母親のことがあった。川野のおばちゃんは夫を失い、高野の母親は子どもである高野が豊かになったおかげで自動的に金持ちらしい生活をするようになっていた。

高野は、事務的に、しかし優しさをこめて、

「墨田のおばちゃん、500万をとにかくお渡しします。お受け取りください。

弁護士に相談したら、契約は後でしたほうがいいというので、未だ売買契約ってことではありませんが、とにかくお金をお渡ししろというのが母親の命令ですのでどうか悪くとらないで、黙ってお受け取りください」

高野は100万円の束5つを包んだ紫色の袱紗をテーブルの上に差し出した。5センチは厚みがある。考えてきたとおりの台詞を口にすると、おもわずテーブル越しに頭を下げていた。

川野純代がふくさを半ばほどいて銀行の封筒の数を目で数え、すぐに自分のハンドバッグから株券を取り出した。古くなって角の擦り切れたた薄茶色のハトロン紙の大型の封筒にしまってあった。

「株券は後のことでいいですから」

高野がそう言うと、墨田のおばちゃんはなにも問いかえさずに素直にもとに戻した。袱紗に入った現金といっしょになって、ハンドバッグが膨れている。墨田のおばちゃんが力を込めてはトロン紙を押し込んだ。

留め金がパチンと大きな音を立てたところで、すかさず高野は、

「あ、この受け取りは弁護士が作ってくれたものですが、いちおう目を通してくださいね」

と付け加えて、自分の胸ポケットから黒のボディに金と銀をあしらったモンブランのボールペンを取り出すと、頭を彼女に向けて差し出した。

川野純代は、印刷された署名欄を埋めながら、

「まあ、高野さんたら、それじゃまるで私がお金に困っているみたい。敬夫さん、お母さまからどう聞かれているのかわかりませんけど、そういう話じゃないのよ」

「済みません。そんな意味ではありません。わかってます。そんなこと、とんでもないことです」

「そうなのよ。私、株を買いたいって方がどちらかにいらっしゃらないかしらって高野さんに話したのよ、それもほんの気軽なお話。頼んだとかいうことじゃないのよ。

そしたら容子ちゃん、あなたのお母さんが、株だったら息子がきっと興味があると思うっておっしゃるから、それならということになったの。そういうことなの」

「そうです、そうです、そうでした。もちろん母からもそう聞いております。

私の母親はそそっかしい人間ですから、敬夫(のりお)、一日も早くっていう調子でして。

ま、おばちゃん、私も柄にもなく孝行息子を気取っているところですので、お許しください」

高野は妙なやり取りになってしまったと、自分の口から次々と吐き出される軽妙な言葉を内心おもしろがっていた。目の前の、88歳とは思えない厚化粧と時代ずれのした洋服と靴を身にまとった女性は、自分を偽らないでおれないのだ。ひょっとしたら、彼女の心は4、50年前、昭和40年代の終わりころで止まってしまって、今の時代を生きていないのかもしれなかった。

(5章その2に続く。最初から読みたい方はこちら

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