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教育や自己啓発に対する投資は難しい

僕は昔から人の心が「ブランク・スレート(空白の石版)」であるということについて疑問に感じていた。「ブランク・スレート(空白の石版)」は、中世ラテン語の『タブラ・ラサ』の訳語で、哲学者のジョン・ロックによって提唱された言葉である。「心はいわば文字を全く欠いた白紙で、どんな観念も持たない」として、生得観念説を否定し、経験論を唱えたものである。ロックは教会の権威や国王の神聖な権利など、それまで当たり前とされてきた、政治の独断的な正当化に反対し、社会のシステムは、一から論理的に考えられるべきだと主張したのだ。

でも、人間には生得的な部分は全く存在しないのだろうか。最初に断っておくけれど、僕はブランク・スレート説に疑問を投げかけるだけであって、社会ダーウィニズムや優生思想を広めたいわけでも、賛成の立場でもない。人の集団同士の生活状態の違い(収入や地位や犯罪率などの違い)が、生得的な資質に基づいていると言って、不平等を許容するのは愚かなことであるし、そうした恐ろしい考え方が蔓延するのを忌み嫌う。でもある一面で、こうしたことを上手く取り入れることで、世界が明るくなるのではないかと思うのだ。

僕は、タイガー・ウッズのようにゴルフボールを遠くまで飛ばすことは出来ないし、イチローのように弾丸のようなスピードで向ってくるボールを、鮮やかにヒットを打つことも出来ない。もちろんウサイン・ボルトのように速く走ることなんて夢のまた夢だ。小さい頃、運動会の徒競走で、猛烈なスピードで隣を駆け抜けていく同級生を見て、速く走るには才能が必要なのだと子供ながらに落胆したのを覚えている。

僕が通っていた高校は、そこそこの進学校で、教師は偏差値の高い大学に生徒を送り込むことを使命のように感じていた。ある時、数学の授業で、いつものように教師が黒板に証明問題の解答を書き込んでいた。僕が必死にノートに書きとめていた時に、ある生徒が「先生、そんなやり方じゃなくて、もっとシンプルに証明する方法が2つあるよ」と言って立ち上がり、スラスラと黒板に書いたのだ。教師はその方法を黙って見つめていた。

僕はこうした経験を通して、自分の心がブランク・スレートだなんて、とてもじゃないけど思えなくなった。でも心は晴れやかだった。生得説の否定は、子供に高い期待を抱く親の心を蝕んでいる。親が子を粘土のように形成できるという説の為に、子供に期待を寄せる親たちは、不自然に、そして時として残酷な育児体制を子供に強いている。毎日違う習い事に通わされ、コンビニでお握りを買い食いしている子供達は疲れきっているし、何よりも子供が希望通りに育たなかった親は、自分の育児方法を悔やみ、苦しみを倍加させている。

ジュディス・リッチ・ハリスは著書『子育ての大誤解』で、親の育て方が子供の性格を形づくる決定的な要因であるという普遍的な思い込みを周到な議論で打ち砕いた。ハリスによれば、親による社会化が子供に与える影響は取るに足りず、同年代の友達の影響が非常に大きいとした。

能力が形成されるのは、「遺伝なのか?環境なのか?」という議論はこれまで何度となくされてきた。安藤寿康は著書『心はどのように遺伝するか』でIQの血縁相関を算出した研究結果を示している。それによれば、同環境で育った一卵性双生児は0.86、生後の生育環境は共有していない一卵性は0.72、同環境で育った二卵性双生児は0.60の相関があることが分かる。また村上宣寛の著書『IQってホントは何なんだ?』に掲載されているパルらの研究によると、一卵性では0.90、二卵性双生児では0.50の相関があったようだ。でも村上は、こうしたデータを冷静に分析して、遺伝率は特定の個人内部での遺伝子の影響力を表わす数値ではないと、はっきり言っている。さらに、遺伝率が90%であっても、ある特定の個人のIQが遺伝で決まるものではないし、そのような数値は存在しないと主張している。

またリチャード・E・ニスベットは、著書『頭のでき』で遺伝とIQの相関をはっきり否定し、環境こそが子供の能力を決定すると主張している。結局、遺伝と環境と、どちらが僕らの能力を決定するのだろうか。

僕は、人間の能力を形成する際、遺伝と環境のどちらか一方が100で、どちらか一方が0であるという、絶対論を主張することは出来ないと考える。世の中には、自己啓発本や自己啓発セミナーが溢れ、「努力しろ」と僕らの背中を押すけれど、僕は実際、そんなに簡単に、資格や技能が獲得出来ないことを知っている。自己啓発を叫ぶ人達の懐は潤うかもしれないけれど、それに時間と手間をかけた人達は、「やっても出来ない」ことに苦しんでいるかもしれない。それは、人の心がブランク・スレートだと信じて、子育てをしている親たちのように。

また環境要因が全てを決めるとして、大学や大学院の授業料を税金を投入することによって、無償化し、機会均等を叫ぶ人達もいる。米国や日本をはじめ、多くの先進諸国の教育コストはとても高いから、一定程度抑えることは賛成だけど、話はそんなに単純ではないだろう。

橘木俊詔・松浦司共著『学歴格差の経済学』では、親の収入が高ければ、子供が高い学歴を得る確率が高いという一般的な話を認めると同時に、子供の能力がその後の収入に影響するということを丁寧に説明している。ここで言う能力とは、「算数が好きかどうか」という点であり、多くのサンプルを用いて数学的に証明している。

これからさらにグローバル化が進み、人の評価が仕事の処理能力と示された実績でなされる時代が到来することになれば、学歴を得たり、資格を得たりといった形式的な能力ではなくて、判断能力や創造力が求められるに違いない。だから教育コストや自己啓発に大事な資産を投資することもいいかもしれないけれど、こうしたビジネスに「食い物」にされることなく、好きなことを見つけたり、自由に生きることによって、形成された付加価値を大切にした方がいいのではいか。教育や自己啓発は、それほど単純でもないし、人の心もそれほど単純にできてはいないのだから。

参考文献



人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上)
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (中) )
頭のでき―決めるのは遺伝か、環境か
学歴格差の経済学
IQってホントは何なんだ? 知能をめぐる神話と真実
心はどのように遺伝するか (ブルーバックス)
子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か

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