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巨万の富「アホウドリ」で拡大した日本領土 - 平岡昭利

 地図を広げて、わが国の領域を眺めると、最東端の南鳥島から西へ、小笠原諸島、大東諸島、尖閣諸島などが点在しているが、これらの島々のおかげで、経済的主権のおよぶ排他的経済水域は大きく広がっている。領海と排他的経済水域を併せた面積は世界第6位である。

 一体、これらの島々は、いつから、どのような背景で、わが国に編入されたのだろうか。

 実は、筆者は今から40年以上前、沖縄本島の東に位置する大東諸島に滞在し、地理学のフィールドワークを行ったことがある。台風情報でおなじみの南大東島を主な研究対象とした。3カ月間、聞き取り調査を行ったが、訪ねた農家の方々の名字が「菊池さん」や「細田さん」など、沖縄姓とは異なる本土姓の方がおられるのに気づいた。沖縄県の離島になぜ本土姓が存在するのか。これらの人々は、明治後期に八丈島から2000キロメートル余りの航海を経て、南大東島に上陸した人々の子孫であった。

 伊豆諸島の八丈島から、はるか遠い沖縄の島になぜ上陸したのか。私の質問に、彼らは口を揃えて「農業をやるため」と答えた。農業のために長い航海をして、絶海の無人島の断崖絶壁を登り、上陸する必要があったのだろうか。何か釈然としないものが残った。

 その後、調査を進めると、鎖国から解放された明治以降、小さな船を操り、数々の危険を冒して、日本周辺の無人島に漕ぎ出した人々がいたということがわかってきた。彼らは大海原を越えて、大東諸島のみならず、広く太平洋の島々にまで進出していた。

 彼らを大海原に駆り立てた原動力は何だったのか。この謎を解くため、八丈島や沖縄の島々でフィールドワークを行う一方、公文書館などで長年にわたり資料収集を続けた。

 その結果、意外な結論に辿り着いた。太平洋に漕ぎ出した日本人の原動力となったのは、巨額の富をもたらす「アホウドリ」だったのである。

明治以降、多くの日本人が追い求めたアホウドリ
(写真・TOKYO METROPOLITAN GOVERNMENT/JIJI)

富豪への近道「無人島探検」の広がり

 明治初期まで、秋になると日本周辺の無人島には、数多くのアホウドリが飛来していた。この鳥は両翼の長さがおよそ2・4メートルという太平洋で最大級の海鳥で、人間を恐れないことや、飛び立つ際に助走が必要なこともあり、簡単に捕獲された。

 1876年(明治9年)に、わが国の領土になった小笠原諸島でも、多くのアホウドリが生息していた。しかし、移住者の急増とともにその多くは捕獲され、羽毛は横浜の商人に売られ、卵は本土に移出された。

 当時、小笠原開拓に従事していた八丈島の大工、玉置半右衛門は、いち早く、このアホウドリの価値に注目した。1887年(明治20年)、島が真っ白になるほどアホウドリが飛来する伊豆諸島南端の鳥島に進出し、組織的なアホウドリの捕獲事業を開始している。

 その捕獲方法は、棒を使った撲殺で、1日に一人当たり100羽、200羽は容易に捕獲でき、1902年(明治35年)の鳥島大噴火までの15年間で、およそ600万羽を捕獲した。その羽毛量は1200トン、売上金額は約100万円で、年平均にすると約6・7万円であった。当時の総理大臣の年俸が1万円の時代にである。玉置の年収は4万円程度であったと推測されるが、これを現在価値に換算すると10億円である。アホウドリを撲殺して羽毛をむしり取るだけの玉置の事業は、莫大な利益をもたらしたのである。

 大富豪になった玉置は、『実業家百傑伝』(1892~93年)などの立志伝に名前が挙げられるなど、実業家として、一躍、時の人になった。さらに、著名なジャーナリストの横山源之助は、1910年(明治43年)刊行の『明治富豪史』の中で、富豪になる方法として、御用商人、土地成金などとともに「無人島探検」を挙げている。当時、アホウドリの捕獲は、富豪になる方法の一つであった。

危険を顧みず我先にと進出
東はハワイへ、西は南シナ海へ

 1891年(明治24年)5月30日付の読売新聞は、「南洋に豊土ありとは、近頃の流行語にて……」と南洋探検ブームを報じた。豊土とは、小笠原諸島の南東に存在するというグランパス島のことである。当時の地図には、このグランパス島のように存在が疑わしい島(疑存島)が多数描かれていた。玉置の成功に刺激された人々は、鳥島にあれだけのアホウドリがいるならば、地図に記載されている太平洋上の島々には、さらに無数のアホウドリがいるのでは、と考えたのである。

 その結果、富豪になる千載一遇のチャンスを逃すまいと、アホウドリなどの鳥類を求めて、東は北西ハワイ諸島へ、西は南シナ海の島々へ我先にと危険を顧みずに進出した。「バード・ラッシュ」とも呼ぶべき「無人島獲得競争」が繰り広げられることになる。

 1899年(明治32年)には、ある民間人からミッドウェー島の借地願いが出され、2年後の1901年(明治34年)には、後に軽井沢の別荘地開発を手がける野澤源次郎も、日本政府にこの島の借地願いを提出している。日本から、はるか東、およそ4500キロメートルも離れている太平洋のど真ん中のミッドウェー島で、この時、彼らは既にアホウドリの捕獲事業を行っており、さらに捕獲の独占を狙って借地願いを出していたとは、驚くような話である。

尖閣諸島も「アホウドリ」
止まらない帝国「日本」の拡大

 この「バード・ラッシュ」の結果、日本周辺の無人島は次々に帝国「日本」に編入され、わが国の領土は拡大した。

 日本最東端となる南鳥島は、グランパス島を探し回っていた水谷新六によって、1896年(明治29年)に発見された。彼はその後すぐにアホウドリの捕獲を開始し、南鳥島は1898年にわが国の領土となった。

 また、尖閣諸島は、1885年(明治18年)に沖縄県が調査し、その回航報告書にアホウドリの大群の様子が詳しく記されているが、明治20年代には、多くの日本人がアホウドリの捕獲のために進出した。1895年(明治28年)になって、寄留商人の古賀辰四郎が島の借地権を申請し、翌96年、政府は古賀に尖閣四島を貸与した。

 このように、鳥類がもたらす富を認識した日本人の海洋進出は早く、中国政府の主張する「尖閣諸島は、日清戦争時に日本にかすめ取られた」という時期以前に、多くの日本人が、既に同諸島に進出していたのである。

 なお、「バード・ラッシュ」によって、アホウドリばかりか、国内外の鳥類も捕獲され、わが国から輸出される鳥類は、明治後期には、年間数百万羽にのぼった。大蔵省も250万~950万羽としている。並外れた数量である。

 その多くがヨーロッパ、とりわけフランスに輸出された。高級婦人帽や頭飾りの原料として使用され、その製品はパリの品のファッションとして大流行した。1880年(明治13年)~1920年(大正9年)頃、わが国は世界屈指の鳥類輸出大国であった。

 だが、こうした大規模な捕獲によって、アホウドリなどの多くの鳥類が枯渇へと向かう。このため「無人島獲得競争」は、ますます激化した。玉置半右衛門の鳥島も例外ではなく、アホウドリは激減し、玉置は新たな無人島を探していたが、そのなかで大東諸島の情報を得た。1899年(明治32年)、八丈島から南大東島に開拓船を派遣し、翌1900年、八丈島の人々は、絶壁を登り上陸に成功したのである。

 こうした状況のもと、1905年(明治38年)前後から、無人島への進出目的に鳥類のほか、鳥糞やリン鉱が加わる。羽毛は軽量のため運搬に小さな船が使用されたが、重い鳥糞やリン鉱は多くの労働者や重機、汽船を必要とした。結果、進出の主体が山師的な商人から独占資本に移行し、その活動は太平洋へと一層活発化していった。

 以上のように、日本の広大な排他的経済水域の形成を主導したのは、アホウドリであった。この鳥は一攫千金になるという認識と、その捕獲という欲求が「バード・ラッシュ」とも言うべき「無人島獲得競争」を引き起こし、はからずも、わが国の領土拡大という副産物をもたらしたのである。

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