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テラバヤシが死刑廃止派であることと、日弁連の死刑廃止宣言について。

10月7日、日弁連の人権擁護大会で死刑廃止宣言が採択されました。

テラバヤシは仕事のために行けませんでしたが、(おそらく採択されるのだろうとは思っていたものの)どうなるのやらと、そのなり行きはとても気になっていました。

あとで詳しく書きますし、前回の投稿でも書きましたが、テラバヤシは死刑廃止派です。が、死刑廃止宣言の採択については、正直、複雑な気持ちでいます。

死刑は廃止すべきだということを強く政府に働きかけていくためには、個々の弁護士でも、有志一同でもなく「日弁連」という形でかかっていかねばならないことは言うまでもありません。

しかし、日弁連は、刑事被疑者被告人、受刑者の人権保護活動だけでなく、犯罪被害者の人権保護活動も行っている組織です。
そして、強制加入団体です。

被害者やその遺族の多くが持つ報復感情、加害者の死を望む感情は、人間として無理もないものです。その気持ちに寄り添う活動をする弁護士がいるのも、だからこそ当たり前です。

ですが、このような弁護士は、弁護士としての活動を続けていく限り、日弁連をやめることはできません。今回の採択は、個々の弁護士の思想信条を損なう恐れも内包しているようにも思えるのです。

採択の前には、かなり長時間の討議がなされていたようです。決して存続派の意思を蔑ろにしての採択ではなかったのでしょう。
そして、今後も政府への働きかけにあたっては、存続派の弁護士の意見聴取の機会も設けられ、死刑に代わる制度や新たな被害者支援の政策提言もなされていくことと思います。
しかし、多数決は多数決です。存続派の意見は、少なくとも7日の採択の時点では切り捨てられてしまったと言わざるを得ません。

だからこそ、私個人は死刑廃止派とはいえ、宣言が採択されたことについては、諸手を挙げて「良かったですね!!」と言うことが、躊躇されるのです。

とはいえ、テラバヤシは何度も繰り返して申し上げますが、死刑廃止派です。

私が死刑を廃止すべきだと考える理由をお話ししたいと思います。

死刑に犯罪抑止効果を期待できないということ(死刑制度が設けられていても凶悪犯罪は日々起こっています)。
冤罪だった場合に取り返しがつかないこと。
死刑は憲法が禁じる残虐な刑罰に当たること。
廃止派があげる大きな理由はこのみっつかと思います。

これに加えて廃止すべきと考える理由として、「ひとりの人を殺すために多くの人を巻き込みすぎる」ということが挙げられます。

死刑を執行するとは、死刑確定者を勝手に死なせることではありません。ルールに則ってその人を殺害するのです。ルールに定められた手順に従って、死刑確定者を死に至らしめるための担当者がいるのです。

その最前線にいるのが、刑務官をはじめとする刑事施設の職員です。

日本の死刑の方法は、絞首刑。死刑確定者が首を紐にかけた後、足元の床が抜けて首を吊った状態にさせて、死に至らしめるものです(余談になりますが、窒息死させるものではなく、頚椎を折って死なせる方法です。場合によっては、首が切断されると聞いたことがあります。この方法が残忍であるとして、死刑に反対する見解もあります。しかし、この理由によれば、他の方法であれば死刑が許容され得ます)。

この床を抜くための装置を動かす担当の職員が、自ら死刑確定者の死に手をかけることになります。
話によれば、ボタンが5つあって、複数の職員が上司の合図で一度にそのボタンを押すことになっているとのことです。これは、「自分が殺した」という罪悪感を軽くするため、と言われています。

がしかし、こんなもので、精神的負担なんて軽くなるわけはないでしょう。
自分じゃないかもしれないけど、自分かもしれないのです。
別に自分がその人に恨みを持っているわけでも、その人の死を望んでいるわけでもないのに、自分が殺めたのかもしれない。
その気持ちは、そんな簡単に消えるものではないでしょう。

ボタンを押すよう合図をする刑務官の心的負担だって相当大きいでしょう。
自分の合図の次の瞬間には、今そこにいる人が死んでいるわけですから。

その後の検死作業も、死んだばかりの生々しい遺体を目の前にして行われるわけです。
ついさっきまで自分の目の前を歩いていた人です。
その姿をどんな気持ちで刑務官たちは見るのでしょうか。
仕事だから、と割り切れるのでしょうか。
何も感じないのでしょうか。
そんなはずはないと思うのですが。

死刑の執行に立ち会ったこと、ボタンを押す係をしたことによって、精神を病んだ人はいないのでしょうか。
仕事を続けられなくなって、やめた人はいないのでしょうか。
その後の人生を、みんなつつがなく送れているのでしょうか。
この点に関するデータが何かあるのなら、見てみたいものです。

最前線ではありませんが、死刑の執行にGOサインを出すのは、法務大臣の仕事です。
鳩山邦夫は、法務大臣時代に、宮崎勤の死刑を執行すべきだと法務省の職員に自ら働きかけたという噂がありますが、歴代法務大臣は、こんな人ばかりではないでしょう。
GOサインを出した後の光景を想像して心的に大きなストレスを抱えた人だって、中にはいたはずです。

そして、死刑判決を下す裁判官や裁判員は、犯罪者を死に導く道筋を最初につける役割を担うこととなります。
裁判官は、裁判官になった時点で、多かれ少なかれ「いつか自分も死刑判決を書くことになるかもしれない」という覚悟をおそらく持つものでしょうし、それを分かった上で裁判官になっています。
が、裁判員の皆さんは、訳が違います。
ある日突然裁判員を務めることになり、自分の意思で事件を選ぶこともできません。
当たってしまった事件で死刑判決を出すことになってしまうのです。

評議において死刑に票を投じた人もそうでない人も、自分の目の前にいる人に対して死を命じる(正確に言うと「国家によって後に殺されなさい」と命じる)ことについて、良心の呵責を覚える人が多いでしょう。
実際、死刑判決が下された裁判員事件の後の記者会見で、担当した裁判員の皆さんが心的に大きくのしかかった重圧について吐露している記事を何度か目にしました。

自分が死刑判決を下した人の刑が執行されたと言うニュースを、裁判員の人はどんな風に聞くのでしょう(心境を吐露した裁判員の方の記事は一度読んだことがありますが)。罪悪感に苛まされ、心的なバランスを崩す人も、実際のところ少なくないのではないでしょうか。

裁判員制度を導入するなら死刑を廃止すべきだという議論もありました。もちろん死刑判決を出すことによって裁判員に生じうる心的なストレスを排除するためです。
しかし、大きくクローズアップされることもなく、死刑制度が存置された中で裁判員制度は開始されました。

もちろん、裁判官だって死刑判決を出すのに、実際は悩み苦しんでいるのではないかと思うのです。自分が死刑判決を書いた当人が実際に執行されたときに、裁判官が何を思うのか、聞いてみたいものです。

すっかり長くなってしまいましたが、一人の人の死刑を決め、死刑を執行するまでの間には、実に多くの人の手がかかっていて、関わった人たちの少なくとも一定数の人には、大きな罪悪感やトラウマを残しているといえます。

これは死刑という制度を置いていることによって生じている大きな犠牲ではないのでしょうか。
これだけ大きな犠牲を払って死刑を残していても、実際に、残虐な犯罪は亡くなってはいません。

死刑は、死を命じ、刑を執行するまでの過程で、多くの人に多くの負担をもたらします。そして、その負担は決して軽いものではなく、とても重いものです。
死刑制度は、払われる犠牲の大きさに比べて効果が薄い制度ではないか、そう思わずにはいられません。

そういう意味でも、死刑はやはり廃止されるべきであると思うのです。

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