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『聲の形』は「障害者映画」ではない

映画『聲の形』。9月17日に劇場公開されて、気になってはいたが、なんとか間に合った。いい映画だったと思うが、まわりの評価などもちらほらと目に入ってきたので、併せて少し考えたことを手短に。以下ややネタばれあり。既に見た人向け。

もともとこの作品は『別冊少年マガジン』2011年2月号に単発で掲載され、好評を受けて『週刊少年マガジン』に連載となったものだ。障害者に対するいじめや差別があからさまに描かれていて、最初の掲載時からいわゆる問題作として話題になっていた。我らがWikipedia先生によると一時はお蔵入りしていたのだそうで、掲載にあたっては講談社の法務部や弁護士、全日本ろうあ連盟とも協議した由。

本作の映画評も、見た範囲では原作の評価と同様、割れている。

『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか
『聲の形』を批評家たちはどう捉えたか

悪い方をいくつか拾うと、長すぎ(注:上映時間129分)、ご都合主義、障害者差別を肯定、いじめ肯定、直視できない、感動ポルノ、胸糞悪い、と散々だが、気づいたのは、こうした悪評価のほとんどがこの映画の「障害者映画」としての側面に注目していること、及びその中に、作品そのものというより、作中の登場人物、さらにはよい評価をしている人たちへのいらだちや怒りを強く感じるものが少なくないということだ。ざっくりまとめると「障害者美化されすぎ」「いじめた奴が許されるのは許せない」「こんなの見て感動とか言ってる奴はおかしい」ぐらいになろうか。

商業作品は市場に出た瞬間から、作者のものであると同時に客のものでもある。作品に対する感想なら、好きも嫌いも、泣けるもキモいも、自由に論じればよい。つらくて見ていられないという人がいるだろうこともわかる。ただ、自分と異なる感想を持った人をそれゆえに罵倒するのはいただけない。自らのつらい経験やら正義感やら何やらといったピュアな動機に突き動かされているのかもしれないが、ピュアだからいいというものではない。そうした、人間の「ピュア」な部分がいかに残酷でときに醜悪かは、この映画がいやというほど見せてくれたではないか。相手が自分と同じではないからといらだち、暴言をはくことを正当化するなら、それはこの作品でいえば、小学校時代の将太の態度に近い。

障害者が出てくる映画だから障害がテーマになっている、いじめが描かれているからいじめがテーマだと受け取る人がいるのは自然なことだし、確かにそういう面も多々あるから否定もしない。だが、1つの作品には多様な側面があるのがふつうだ。どこに着目するか、どこに感動するかはその人の個性によって、あるいは経験によって異なるだろう。少なくとも本作は、劇場用映画としての尺の制約があるためだろうが、連載漫画版と比べて、いじめの要素は薄くなっている。聴覚障害は主人公2人の間に横たわる大きな問題ではあるが、問題はそれだけではない。

主人公が聴覚障害者だからその気持ちは障害者にしかわからない、語れないというのであれば、あらゆる創作は成り立たなくなる。私たちは両親が闇の帝王に殺されたため冷淡な親戚に預けられた10歳の魔法使いでもないし、見ず知らずの男子高校生と体が入れ替わる女子高生でもないが、そうしたキャラクターの心情を映画の描写を通して理解できるはずだ。障害者だけは別だというなら、それこそ、障害者を特別扱いする考え方だろう。

同様に、障害者である硝子が「いい子すぎる」という批判も、「障害者だって人間だからいろいろいる」という「感動ポルノ」批判とつなげて理解できなくはないが、「障害者がいい子であることが許せない」というなら、それはまた障害者に対する別のイメージの押し付けではないか。そもそもあの作品をみて硝子を典型的な「いい子」だと考えること自体、短絡的な見方のように私には思われる。

というわけで、「障害者映画ではない」というタイトルは、やや煽りぎみであることは認めるが、実際私はそう思っている。ではどういう映画か。以下感想。あくまで個人的意見なので、他人に押し付けはしない。

この映画の大きなテーマが「ゆるす」ということであるのはあまり異論はないのではと思う(だからこそ「ゆるせない」人たちから批判されるのだろう)が、私がこの映画を見て最初に浮かんだ感想は、これは「自分を許せない人たちの物語」だなということだ。「ゆるす」の中にはもちろん「自分に対してひどいことをした人をゆるせるか」という要素もあるだろうが、同時に、というよりむしろ、「ゆるせない自分をどうやってゆるすか」の方が本作の中核部分に近いのではないかと思う。

この要素は、かつて硝子をいじめた将太についてはわかりやすいが、硝子もまた、自分をゆるせない人だ。それは単に、障害をもつ自分が許せないというだけでなく、内に秘めた激しい部分を出したいのに出せない自分へのいらだちでもある。そのいらだちとあきらめと、不安とがのごっちゃまぜになったのが、たびたび出てくる、印象的な硝子の笑顔なのだろう。自分への怒りは、植野や佐原など、周囲の登場人物にもみられるし、はっきりとは描写されていないが、硝子の母や小学校の担任といった大人たちの中にもそうしたものはうかがわれるように思う。その意味で本作は、主人公2人の物語であると同時に、彼らを含む「自分をゆるせない人」たちの群像劇でもあると思う。

「ゆるせない自分」への向き合い方はいろいろある。真摯であればあるほど、自分を自分でゆるすことは難しい。おそらく将太と硝子が最も真摯で、だからこそ極端な行動に出ようとしてしまったのだろう。もちろん、最悪の結果を招くような「真摯」さは容認できないが、本作では、人とのつながりが「自分をゆるす」、いいかえると自分に「ここにいてもいいのだ」と思う力を与えてくれるさまが描かれていて少しホッとした。他方、将太とのつながりの復活を拒否し、おそらくは自分で自分をゆるそうとしている島田は、まだもやもやの中にとどまっているようにみえた。

こうした、誰もが持っているはずの自らの闇や恥部をちくちくとつついてくる群像劇というと、思い出すのがこれ(原題はちと書きづらいがこのタイトルになってよかった)。ある意味似たテイストを持っているように思う。これがいけるという人は、本作もいけるのではないかと思う。(追記:そういえば本作に出てくる将太の友人、永束の髪型は、こちらの元になった作品(いわゆる「オナマス」の漫画版に出てくる主人公の友人、長岡にちょい似ている)

本作は原作者の出身地である大垣市が舞台となっている。聖地巡礼を当て込んでいるのだろう。どのくらい効果があるかはわからないが、本作に描かれた大垣の風景は美しく、どこか懐かしい。ていねいな描写では定評のある京都アニメーションだが、本作もそうした評価にふさわしいと思う。一度行ってみたいとかねがね思っている養老天命反転地でのシーンもよかった。あの施設がある養老郡が大垣市の隣接地だったというのは今回初めて知った。大垣も含めて訪れてみたいという気持ちが募りつつある。

「聲の形」聖地巡礼 美登鯉橋など ファン「漫画のまま」」(岐阜新聞2016年9月4日(日)
聲の形 舞台ガイド 大垣市」(大垣・西美濃観光ポータル・水都旅)

特に印象に残っているのが、花火のシーンだ(実際に大垣花火大会というのがあるらしい)。絵もさることながら、音。近くで見た人ならわかると思うが、花火を近くで見ると、おなかにドンと響くものを感じる。音が聞こえなくても、あれはわかる。確かそんな会話があったのではないかと思う。本作の花火のシーンでも、そうしたおなかに響くものを感じることができた。劇伴の楽曲の中でも、おなかにズンと響く音が随所に使われていて、心の動きや痛みの表現にマッチしていたように思う。

見ればすっきり心が晴れる、というタイプの作品ではない。いわゆる「泣ける」作品ではあるのだろうが、そこですっきりしてしまうのではなく、心に残るであろう重くどす黒いものと、かすかな希望の光のようなものの両方を感じ取りたい。

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