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#ブルキニ#ライシテ?

ブルキニ論争の背景

ブルキニ論争が燃え上がった8月のフランス。ブルキニとは、イスラム教徒の女性用に考案された、髪や腕、足を隠すスタイルの水着。

そもそもこれを禁止しろと躍起になり、論争を巻き起こすこと自体が滑稽だと思って私は眺めていたのだが、なぜ今、フランスでこのように超マイナーな服装が表舞台で議論の対象になってしまうのか、少し背景を含めてまとめてみた。

事の発端は南仏のプライベートのプールがブルキニを着用した女性と子供(男の子は10歳以下)に限定したイベントを開催しようとしたこと。その情報を極右や右翼が拡散。その後、30ほどのコミューンがブルキニ禁止令を出した。これに対し、コンセイユ・デタ(日本でいう最高裁)はそのうちの一つ、ヴィルヌーヴ=ルベの禁止令を違法と差し止めた。その理由として、この禁止令が個人の自由や移動の自由を制限するものである、ということが挙げられた。

ブルキニ禁止令に対する立場

禁止令に反対:

① ブルキニを公共の安全を脅かすものと捉えることはつまり昨今のイスラム原理主義者によるテロがいわゆるイスラム教の延長線上にあるという短絡的すぎる理解であり、テロ問題とイスラムの混同であり、イスラモフォービアにつながっている。このような禁止令を布くことはフランス共和国の価値に反しているし、ライシテの原則にも反する、という視点。異様な規模にまで「ヒステリー状態」が広がってしまったことがこのような短絡的な解釈をしている人々がいることの証明であると社会学者のミシェル・ヴィヴィオルカが述べている。(http://wieviorka.hypotheses.org/750)

② そもそも法律的な観点から問題がある。法律家のStéphanie Hennette Vauchez氏も、例えば禁止令を発令する際にブルキニが公共の安全を脅かすという理由を出してくることの問題は、ブルキニを昨今のテロと直接関連付けてしまっているところだという。2015年以降、多くのテロが起き、それをイスラム教と短絡的に結びつけたり、問題を混同したりしないようにと多くの人々が訴えてきたわけだけれど、それを見事に禁止令という公文書の形にしてしまったのだから。またもう一つの問題は、手続き的な面で、このような公共の安全を脅かすという理由を使う場合は一連の調査が必要であるが、今回はその手続きをせずに発令してしまっている点があげられる。 (http://doyoulaw.blogs.liberation.fr/2016/08/23/et-le-burkini-devint- debat-national/)

③女性の服装や体についてあれこれ言うこと自体がナンセンスであるという視点 (ミニスカートやビキニの流行を巡る議論などからずっと通じるものがある)。この手の議論は多くのフェミニスト団体の言い分にも通じるところがある。というのも学校内での女性生徒がベールを被ることには反対を表明してきた彼女たちも今回のブルキニ論争では禁止令に対して反対の立場を取っていたりする。なぜ ならばこれがまたしても「女性の身体や服装に限定された」話であり、それは社会的な抑圧であるから。それに公共の安全性を理由として出してきているが、まさかブルキニがこれまでのテロに関連付けられるわけもないから、というわけだ。

ちなみにジハーディストたちは彼らの望むフランスのイメージをフランスの警察が自ら発信してくれてほくそ笑んでいるらしい。さらに言えばブルキニは彼らが良しとしない服装であるわけだし。

禁止令に賛成:

①これはただの服装、流行という話ではなく、政治的な行為であり、反社会的である、とフランスの首相は表明。そしてこれは共和国の価値、つまりライシテの原則や男女平等の原則に反している、という。

② 公共の場に対するイメージが揺るがされると感じ、漠然とした恐怖を抱いた人々、主に極右やナショナリストからもブルキニ禁止令賛成の声が聞かれた。昨今のテロやテロ未遂が続くフランス。パニックに陥りやすい背景のある中で募ってきていた不安が歪んだ形で出てきてしまい、政治的な論争にまで発展したことでこのような反対の動きを煽ったとも言える。ちなみにフランスでは2017年に大統領選を控えていることもあり、各政党はあらゆる問題(国の安全など)を政治的に利用することに躍起になっている。

バズワードとしてのライシテ

これをめぐって国内外の議論を見ているうちに、いろいろ思うところはあるけれど、とにかくライシテという言葉が一人歩きし、もはや一種の「バズワード」になってしまっていると感じている。右も左も、賛成も反対も共和国の価値だとかライシテをあげている。

さらにフランス国内にとどまらず世界中がフランスの「ライシテ」を語り、口にする。しかし実際にフランスにいるフランス人ですらその的確な定義を知っている 人はどれほどいるのか、怪しいものがある。ましてや全世界に広まった「ライシテってつまり世俗主義でしょ」、という程度の理解が広まって、その中身は空洞化してきていると感じるのだ。

フランスのライシテ、とはよく「政教分離」とか「非宗教性」と訳される。簡単に言えば国家の中立性と良心の自由(宗教の自由)を保障する原則である。法律的な観点からは、フランスの憲法の第1条に明記され、さらに1905年の政教分離法に依拠する。

スカーフ問題として世に知られた2004年の法律がライシテを根拠にしているため、ライシテがあるからフランスでは自由に信仰を生きることができない、という短絡的な理解も広がってしまった。ところが実際はこの法律に関しては未だに国内でも議論はあるし、2010年に顔全体を隠すブルカが禁止になった法律はライシテで通そうとして通らなかった法律の一つなのだ。

ライシテを極端に持ち上げようとかそういう意図はないが、Le Monde diploで、Alain Gresh氏がどのようにライシテが間違って理解されてしまっているのかについて的確に書いている。彼によると『ライシテ』とは寛容や男女平等の同義語で はない。もとはカトリック教会と国家の関係性を監視する原則である。だから一部で言われているように、ライシテについて学校で集中的に教えることが問題の多い地域の教育改善に直接つながる、などということはないという。サルコジ氏が2003年、証明写真を撮る際はフカーフを取るべきだ、とライシテの原則を出しながら言ったわけだけれど、Gresh氏によればそれは公共秩序の問題であってライシテの問題ではない、と。男女共学の話もライシテに絡めて語られることがあるわけだけれど、ライシテのもとでフランスは男女別学を60年代まで問題なく続けたのだ。(http://blog.mondediplo.net/2015-01-25-Charlie-la-laicite-et-la-bicyclette)

ライシテというのはそもそも社会における宗教の場所を定義するものであり、信者がその信仰を生きるためのすべての権利を守るものである、とGresh氏は続ける。さらに、公共の場でもそれは変わらないという。例えば1905年の政教分離法は街中で行われる宗教的な祭りなどを禁じてなどいないのだ。(ちなみにここでいう憲法に明記されている概念としてのライシテとフランス社会のいわゆる世俗化という現象については再考すべきテーマな気がするのだけれど、これはまたいつか別で。)

さらに押さえておきたいのは、民主主義が政府の形ではないというのと同じで、ライシテというのは法律ではないということ。その長い歴史の中でその時代ごとに少しずつ意味合いを変えてきているものなのだ。

問題の本質はどこに?

ブルキニの話題をここでもう一度落ち着いて考え直してみると、問題の根本は公と私の境界線の問題、現代フランス社会がぶつかっているテロのイシュー、そして社会に根付くイスラモフォービアと国家アイデンティティの問題が絡んでいるのだと気づく。

公の場とは排除の原則で定義をするべきものではない。人々が日々、交渉しながら緩やかに形成されるものだし、その境界線も常に流動的だ。ところが今回のような論争では、この公共の場の境界線はここだ!といったようにマジョリティがある価値観をマイノリティに押し付ける構図になっている。あたかも皆が同じ方向を向くべきだと言うかのように。そうなってしまうと人々の間での交渉という行為はなくなり、いきなり警官による取り締まり、罰則という形を取ってしまう。この飛躍が今回のブルキニの件ではあからさまだったと感じる。そして相手への押し付けのための理由としてもっと もらしく『ライシテ』という言葉を出すのだ。

また、自分の宗教心を守っているのはライシテだと言うムスリムを知っているというのもあるが、ライシテとイスラム教を二項対立的なものだと解釈したり、このふたつは絶対に相容れないのだ、と決めつけるような論調もあるがこれは社会を分断することにつながるのではないだろうか。それに歴史的に必ずしも「相容れないもの」だったわけではないし、フランスにいるイスラム教徒のバックグラウンドは非常に多様であることを考えるとこうして言い切ってしまうことは少し違うのではと思うのだ。また、もう既に起きていることだけれどフランスにおけるイスラム教徒をさらに「単一化」 し、「他者化」し、「問題化」することにつながる。

ライシテが共和国の重要概念の一つであることは、憲法第1条 に明記されていることからもわかる。だから昨今のナショナリズムの高揚に伴い、このライシテは国家アイデンティティを象徴するかのように捉えられている。ある対象を国家外へと排除するために利用されやすい理由だ。

特に2004年の公立校での明らかな宗教の標章や印の着用禁止の法律以降、フランスではライシテの原則が国家アイデンティティと同様に考えられたり、一つの揺るがない価値観のようなものとして捉えられる傾向が強くなってきている。

ところが実はライシテはその時代のコンテキストによって緩やかにその意味や対象を変えてきている。人々が大切だと感じる原則であることは変わりないとしても、それは国家アイデンティティを形成する神話のようなものではない。そういう機能を持ち始めているとしてももとはそういう性質のものではない、ということ。

上記したAlain Greshは、1905年の政教分離法が成立した頃のフランスでは、税のシステムや教育の無償化といった大規模で革新的な政策を国として推し進めるため に、まずは国内の宗教の紛争を収めることが必須だったという背景があったという。それから1世紀以上たった今日のフランス。ライシテの専門家のボベロは 人々の思想の自由を脅かすのは一体何か、と問う。それは一部のスカーフを被った女生徒ではなく、むしろ新自由主義や資本主義で広まった格差なのではないだろうか、と。

非常事態の日常化から考える

今回のブルキニの件は、 そもそも公で議論するには価しない話題だろう、という意見も聞かれる。しかし結局こうなってしまったのは、ライシテの乱暴な政治利用や、ここ1年以上も続いている緊急事態宣言が生み出した社会の雰囲気(駅構内では兵士が大きな武器を抱えて歩くのが当たり前。ちょっと買い物に行っても入り口でカバンを隅々ま で見られるなど)の結果とも言えるだろう。そしてこんなに不安を煽るような緊急事態宣言をいつまで引き延ばすのか、もっと本質的な根本的な解決を急げという声がよく聞こえてくる。緊急事態宣言に反対する市民運動もその一つだろう。

テロが立て続けに起き、テロ未遂がある日常。大きなショックからは立ち直って普段の生活に戻ったと思っていても実は頭のどこかでは常に警戒態勢でいたりする。子供が通う幼稚園でも「今年も引き続き厳重警戒態勢です」、と説明され、警官が入り口に立っていたり、たくさん人が集まるところはなんとなく避けるようになったり、ふと通勤電車の中で「今もし…」と考えてしまったり。 こんなことは少し前まではなかったな、と思うことが多々。こういう状態が日常化するとはどういうことかと考える。そしてこのような非常事態が日常化する情勢下で、フランス自身がその社会の根本にある本質的な問題ときちんと向き合うことが今まで以上に求められているのだろうと感じる毎日だ。

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