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聴力失った絶望乗り越え障害者と健常者の橋渡しに 松森果林さん&初瀬勇輔さん - 大元よしき

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松森さんは、NHK・Eテレ「ワンポイント手話」などに出演。障害者政策委員会委員を務め、「井戸端手話の会」 を主宰するなど多方面で活躍するユニバーサルデザインアドバイザーです。著書に『星の音が聴こえますか(筑摩書房)』 『誰でも手話リンガル(明治書院)』『音のない世界と音のある世界をつなぐ―ユニバーサルデザインで世界をかえたい!(岩波ジュニア新書)』など多数。今回は手話通訳さんを介して対談が行われました。

 「障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド」の第4回は、ユニバーサルデザインアドバイザーの松森果林(まつもりかりん)さんをお迎えしました。


ユニバーサルデザインアドバイザーの松森果林さん(左)と初瀬勇輔さん

 「私の強みは聞こえる世界と聞こえない世界の両方を知っていることです」と穏やかに微笑む松森さんですが、小学4年生で右耳の聴力を失い、高校2年生で左耳の聴力を失いました。蛇口をひねっても水の音が聞こえない。楽しいはずの食卓を囲んでも家族の声が聞こえてこない。すべては音のない世界でした。

 「私が笑うことはもうないだろう」

 そして……。

親に心配かけぬため言えなかった障害

初瀬 まず松森さんの障害についてお伺いしたいのですが、ごく普通に生活していた女の子が聴力を失うまでの歩みをお聞かせ下さい。

松森 小学4年生のときでした。左耳を下にして寝たときに、隣の部屋の音が聞こえなかったんです。あれ、おかしいな? と思ったのですが、一晩寝たら治ると思っていました。

 私は4人兄弟の長女で、妹が生まれたばかりでしたから、親に心配をかけてはいけないと思ってそのことを伝えませんでした。友達と話すときは聞こえる側に回るようにすれば、なんとかやっていけましたし、このままでも大丈夫かなと思っていたのです。

 その後、小学5年生の健康診断で聴力の反応が遅いことがわかって、家庭訪問の際に先生から母親へ伝えられました。そこで初めて私の耳が聞こえていないことを親が知ったのです。

初瀬 小学4年生で知りながら、5年生まで言えずに胸にしまっていたということですね。10歳の子にはとても辛かったんじゃないかなと想像します。

松森 それからはいろいろな病院に行くことになるのですが、原因も治療法も分からず、たらい回しにされたあげく東京の病院まで毎週通うことになりました。

いじめにあって聞こえないことを隠し通した中学時代


松森果林さん

松森 学校を休む日も多くなり「果林ちゃん、耳が聞こえないらしい」といううわさが広まりました。クラスの男子からは「つんぼ」と言われて、からかわれたり、いじめられたりするようになったんです。そんな経験から耳が聞こえないことは隠していこうって決めました。11歳の時です。自分を守るにはみんなと同じようにふるまう以外に方法がなかったのです。

 親にも「薬を飲んだら治ってきたみたい」なんて悲しい嘘もつきましたし。みんなが笑っていれば理由が分からなくても一緒に笑い、何を言っているのか分からなくてもうなずいたりもしました。

 授業中に差されても聞こえないから「わかりません」と答えるしかないし、ちぐはぐな答えをしてクラスメイトから笑われることも多かったです。

初瀬 自分の障害を隠さなければいけないなんて、中学生なのに辛い経験をしましたね。

聴力失って絶望の淵に立たされた高校時代

松森 その後、残りの聴力も少しずつ低下し、高校2年の冬に右耳が聞こえなくなりました。前日まで聞こえていたのに、朝起きて、咳をしたその音が聞こえなかったのです。「えっもしかして!?」と思って、声を出したり、水道の蛇口をひねってみたのですが音が聞こえません。家族が会話をしながら朝食を食べている様子を見ても、何も聞こえてこないのです。パンを食べてもスポンジみたい、オレンジジュースはただ苦いだけ、昨日まであった感覚がすべてなくなってしまったように感じました。

初瀬 その後、生活はどのように変わったのですか。

松森 聴力を失ってからの私は、「聞こえない自分なんか生きている価値がない」と思うようになって、毎日のように、どうしたら死ねるだろうか、とそればかりを考えていました。


初瀬勇輔さん

遂に自殺未遂まで……

 ある大吹雪の日、学校からの帰り道に「この吹雪の中で倒れこんでしまえば死ねる」と思いました。人通りもない田舎だったからです。寒さも何も感じませんでした。でも、結局凍死寸前で発見されて自殺未遂に終わりました。

 自分が助けられたことを知ったときは、生きていて良かったとはとても思えませんでした。明日から、またあの辛い日々が始まるんだと思うと 、涙も出ないほど悲しかったです。

初瀬 自殺未遂まで……。辛かったですね。でもその気持ちはわかるんですよ。

 僕は23歳で視力を失ったのですが、入院手続きや準備まではすべて自分で行えたのですが、手術を終えて眼帯を外したときに「あれ? なんで見えないのだろう???」と思ったのです。

 はじめは手術の直後だから見えないのかと思っていたのですが、1週間経っても10日経っても、視力は戻らず見えないままでした。歯を磨くことも、お箸を使ってご飯を食べることもできませんので、携帯なんて使えない。本も読めませんし、画面の見えないテレビなんて面白くもない。自分では何ひとつできない、楽しめない状態になってしまったのです。

 だから、手術を終えたあとは「死にたい、死にたい」と毎日母親に言い続けていました。すると母が、「そんなに死にたいなら、私もいっしょに死のう」と僕に言ったのです。この言葉が胸に重くのしかかってきましてね、「これ以上、苦しめる訳にもいかないし、母まで死なすわけにはいかない」と思いました。でも、僕にはそんな母親の顔もわからなくなってしまったのですが。

 松森さんは自殺まで図りながら、その辛さをどう乗り越えたのですか?

松森 毎日泣いている私を見ていた父親が、「お前の涙を見ていると、いっそのことお父さんの耳も聞こえなくなってしまえばいいと思う。できることなら、お父さんが代わってあげたい」と紙に心情を綴ってくれました。でも、その最後に、「でも、もし自分が同じ立場なら、絶対に乗り越えるぞ」とも書かれていたのです。父親のその一言が、私を支えてくれました。

初瀬 背中を押してくれる、お父さんの一言があったのですね。

見た目では耳が聞こえないことはわからない


松森さんのお話に聞き入る初瀬さん

 ところで、授業はどのように受けていたのですか?

松森 自殺未遂から1カ月間くらいは図書館登校をしながら、様々な本を読みあさりました。静かな時間でした。自分と同じような境遇の人の本を読んだり、自分のアイデンティティを確立していくような内容の本を探して読んでいました。

 その後、ある先生から「見た目では耳が聞こえないことがわからないから、周りの子も先生たちも、どう接したらいいのかわからないんだと思う」と言われたのです。それで初めて気づいたのですが、それまでの私は聞こえないことを隠して、自分だけが苦しんでいると思っていたんです。でも、それを周りの人にきちんと伝えなければわからないことがわかって、すぐに校長先生のところに伺いました。

 耳が聞こえなくなって混乱していることや、この先どうすればいいのかわからないことなど、心の中にため込んでいたことを全てお話をしたんです。そうしたら、すぐあとの授業の先生が、「紙に書いたほうがいい?」と私のところに来て聞いて下さったのです。校長先生にお話ししたすぐ後ですから、とても嬉しかったのを覚えています。

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