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障害者をケアする母親に生じる貧困と不平等 - 田中智子

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当然のことではあるが、障害があること(後天的な障害も含む)、さらには障害者の家族になるということも、偶然によるものであり、選択が介入する余地はなく、本人の責任に帰することはできない。

それにもかかわらず、障害があって生きるということ、そして障害者の家族であるということは、現在の日本では、様々な社会的不利をこうむり、人生設計の変更を余儀なくされる要因となる。特に、母親にとっては、性別役割分業規範と結びつき、自分の生活や人生は脇において、ケアの専従者となることが求められる。

ゴールの見えない“親なき後”

先日、ある裁判を傍聴した。被告は、長年、入所施設を利用している障害のある子どもを、一時帰省中に殺害した母親だった。裁判の中で、母親は「この子を残しては死ねない」「(殺害したのは)仕方がなかった」「後悔はしていない」という言葉を繰り返した。

障害者家族のあいだには、昔も今も「親亡き後」という言葉が存在する。一般的には、親亡き後の子どもの行く末を憂いてのことを指す言葉で、「子どもより一日だけ長く生きていたい」というのは偽ることのない親の本音であろう。そんな親の思いに応える解決策の一つとして当てにされているのが、終生施設としての入所施設である。

しかし、今回の事件もそうだが、これまでの同様の事件を見てみると、子どもの終生に渡る生活が保障される見込みがあっても(中には、特別養護老人ホームに入所する子どもを手にかけた例もあった)、子どもを手にかけてしまっている。

このことから、入所施設という社会資源を準備するだけでは、親たちにとって「親亡き後」問題は解決しないのだということが分かる。なぜ、親たちは日常的なケアを社会に委ねた後、さらには、終生にわたる子どもの生活の見通しが立った後にさえも、子どもを手にかけてしまうのだろうか。どのような手立てがあれば、本当の意味での「親なき後」問題は解決するのだろうか。その答えを社会は見つけなければならない。

“親”を超える“障害者の親”役割

親にとって「親亡き後」問題がどのような意味を持つのかを考える上での手がかりとして、母親のケアへの専従化ということがある。現在の日本では、障害のある子どもをケアする母親には、通常の親としての役割をこえた様々な役割を担うことが社会的に要請される。それは母親にとって「障害者の親」という属性の一側面を肥大化させて生きることとなる。

第一に、「介助者」としての役割がある。日常的なケアはもちろんのこと、経済的にも(障害者に支給される障害基礎年金の支給額は生活保護水準を下回る)幼少期から成人期に至るまで支えることが求められる。その経済的支援は、家族からの離家を契機に終わるとは限らず、障害当事者の暮らしは親の経済力とケア力に規定されると言っても過言ではない。

次に、「準専門家」としての役割があげられる。障害者の親は、幼少期から母子通園や母子入院などの機会を通じて、専門的なリハビリを親自身が施すことができるようにトレーニングされる。そのような場面では、母親が専門家から「この子が歩けるようになるかどうかはお母さん次第ですよ」と言われたことがあるとしばしば耳にする。そうすると、必死になって子どもの訓練を中心とした生活を送ることとなる。

また、最近になって福祉職や教員ができるようになってきた痰の吸引や経管栄養などの医療的ケアも、昔から親は可とされてきた。現在でも、専門性のある職員が不足する療育や教育の場に、日常的に立ち会うことを求められるケースも珍しくはない。

さらに、「コーディネーター」としての役割があげられる。障害者のケアのコーディネート、さらに各機関・施設への申し送りなどは素人である親が担っている場合が多い。

例えば、福祉サービスに関する情報を提供しているWAMNETで、「東京都新宿区」で「知的障害者」の「居宅介護」を検索すると247件の事業所が該当する(2016年5月1日現在)。その中から、自分の子どもにあった(実際には多くの事業所が障害特性に応じて、対応の可否が分かれる場合が多い)適切な事業所を素人が選択するのは至難の業である。また子どもの状態に応じた適切な社会資源が不足する場合、親自らが担い手となって運営することもしばしばある。

このようなコーディネートは、生活全般にわたって、まさに「親なき後」のことまでが含まれるのである。

最後に、「代弁者」としての役割も見過ごせない。親たちは、幼少期からの日常生活の中で、家族だけがわかる‘あ・うん’の呼吸みたいなもので本人の意思をくみ取り家族外の他者に伝えるということから、社会に対して、障害者問題を啓発するという幅広い役割を代弁的に担っている。

多くの家族会の要求運動の中で、「障害者の豊かな暮らし」をということは全面的に掲げられても、「家族にも豊かな人生を」ということになると声が小さくなりがちである。親=ケアラーであることが自明視される日本において、「親にも豊かな人生を」という声は社会には届かない。

このことを、児玉真美(2012)は『海のいる風景―重症心身のある子どもの親であるということ』(生活書院)の中で、障害者の親としての自身の体験を通して「私は『娘の療育担当者』だとか『介護者』という『役割』とか『機能』そのものになってしまって、もう一人の人ではなくなってしま」い、「私たちはSOSの悲鳴を、自分でも気がつかないほどしっかりと封印するしかないところに追い詰められているんじゃないか」と表現している。

以上のように、子どもの誕生から親亡き後に至るまでのケアの第一義的責任を担うことを求められる中で、母親たちは、自分自身の仕事や友人づきあい、趣味などの多くを、あきらめることを積み重ねることとなる。家族を「資産」として位置づけたうえで、補足的なケアを社会資源が担うという現状においては、親たちの役割が軽減される見通しは見えてこない。【次ページにつづく】

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