記事

無知は偏見を生み、偏見は差別を生む。

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 標題は、先輩の、A元養護学校長(現・特別支援学校)の言葉である。

 何とも悲しい事件だった。

 障がい者やその家族、また、学校関係者は、この社会にねづく差別の問題に日々取り組んでいるというのに・・・、今回の事件は、その努力をふみにじってしまった。

 《差別は殺人者を生む。》・・・か。

 ほんとうにショッキングな事件だった。国民はもちろんだが、障がい者の方たちには、より大きな衝撃となってしまったようだ。自分たちの存在を否定されたように思われた方も少なくない。また、まちを平気で歩けなくなってしまったという方もいらっしゃる。

 この犯人は、障がい者を《もの》だとまで言う。・・・。

 そうか。そのまえに、言っておかなければいけないことがあった。この犯人の言葉は、ころころ変わるね。《人》と言っていることも多い。また、家族へのお詫びの言葉を言うかと思うと、反省などしていないとも言う。そのとき、そのときの気分で言っているのだろう。

 ただそうしたなかでも、ある一つの思いは感じることができる。ようするに、施設の方がおっしゃったように、むかしの《ナチス》と同じなのだろう。

 テレビの映像を見た。40人以上殺傷しておいて、あの笑顔だ。護送車のなかで、なんか、純真無垢な少年のようにも見えた。それだけに、ものすごく不気味なものを感じた。

 《意思の通じない人》とも言っているようだ。数年施設で働いて、何という言葉だ。通じないのではない。通じる努力をしなかったのだ。

 二人三脚にたとえれば・・・、たいがい二人の走力は異なるだろう。そのときどうするか。決まっている。遅い方が速い方に合わせることはできないのだ。どうしたって、速い方が遅い方に合わせるしかない。その場合、合わせるのは、《合わせてあげる》のではないよね。当然のこととして合わせるのだろう。

 そこではやはり、あたりまえのこととして、励ましの声をかけたり、努力を認め合ったりするのではないか。そうすることによって、気持ちが通じ合うようになる。好成績を得るにはそれしかない。

 重度重複障がいの方のなかには、言葉を発することができない方も多い。それなら、言葉を発することができる人が手を差し伸べ、意思が通じるようにするしかないではないか。

 わたしはこの犯人が、重度重複障がい者のことをいろいろ言っているのを知って、自分の過去記事を想起せずにはいられなかった。A小学校において小学生が、A小学区に住みB養護学校(現・特別支援学校)に通う重度重複障がい児Cさんと心温まる交流を展開した事例だ。

 ここで、その交流の様子を書いた記事にリンクさせていただくが、その前にふれておきたいことがある。

 この記事内容の一部と重複してしまうが、ここに登場するCさんは、肢体不自由なため、ほとんどベッド生活である。自力歩行はできないし、言葉を発することもできない。食べ物を飲み下す力が弱いため、鼻から胃に管を入れ、その管で栄養をとる。

 そのCさんの大事な学習内容の一つは、外部からの刺激に対し少しでも反応を豊かにするということである。気持ちを表現できるようにするということである。まさに、『生きる力』を養っていると言えよう。

 犯人に言いたい。

 《人としての尊厳》という。そう。みんなどの子も学校へ通う以上、大事な学習内容とめざすべきめあてをもっているのだ。 

 この小学生たち、交流の初めは、自分たちの教室とあまりにも様子の異なる、寝たきりで鼻にチューブを入れて生活しているCさんたちの姿を見て、正直、こわいと感じたと、率直に話している。それが交流を通して・・・、

 具体的には、過去記事(人権教育(13)交流教育  共生を考える。)に譲らせていただこう。ただし、Cさんのお父さんからいただいたメールは、そのまま再掲させていただく。

 〜。交流授業の際は、担任のD先生をはじめ、児童の皆さんにあたたかく接していただき、楽しく授業に参加させていただいております。

 先日は、社会科見学にも、参加させていただきました。ふだんの交流授業では、D先生のクラスの児童と交流しておりますが、今回の社会科見学では、5年生全員が参加していたため、Cを他のクラスの皆さんにも紹介していただきました。 また、5年生全員による合唱のプレゼントまでしていただき、Cもいつになくよい反応(目をキョロキョロ)をしていたので、わたしもびっくりしてしまいました。

 このような交流授業がどこの学校でも行われるようになれば、障害を持つ子どもたちにはよい刺激となり、健常者の子どもたちには、「世の中にはいろいろな人たちがいるのだ。」ということが理解されるようになるのだと思います。

 わたしたちは、なるべくCを連れて、地域のイベントにも出向くようにしています。夏祭りや盆踊りに行くと、Cを見かけて、A小学校の子どもたちが、
「元気でしたか。また、学校に来てくださいね。」
と、声をかけてくれるようになりました。これも、交流授業に参加しているおかげだと感謝しております。〜。


 本実践に登場した子どもたち。あれから10年近くが経過した。今、成人式を迎えようとしている。この事件をどんな思いで受け止めたか。彼らにもかわいそうでならない。

 先ほど、犯人は、《通じる努力をしなかったのだ。》と書かせていただいた。その片鱗がCさんのお父さんのメールに現れているなと感じる。

 いつになくよい反応とあるよね。でも、それは、具体的には、《目をキョロキョロ》というように、目の動きなのだ。介助者は、目をよく見ていないと、よい反応かどうか分からないままになってしまう。

 ここに、障がい者を介助する人に期待される大事な心構えがあるなと感じる。

 また、上とは別な過去記事を読み返して、今回の事件との関連を思わずにはいられなくなった。

 関係する部分だけ、これも抜き書きさせていただこう。

 我々教員でも、つい口にしてしまう言葉がある。『寝ている子を起こすな。』論(《差別の事例など子どもの身のまわりにはないのだから、差別をとり上げての授業などする必要がない。》ということ。)である。

 これは間違いだ。

 『寝ている子』はずっと寝ているわけではない。何かきっかけがあれば、『寝ていた』ように見える差別意識が出てしまう。


 相模原での事件の犯人に、この論理が通用するのかどうかは分からない。でも、この仕事についたとき、障がい者を不憫に思い、同情する気持ちもあったようだ。前述のように、どこまで本心を語っているのかは分からないが、もしそうなら、この『寝ている子』論が、まさに最悪の方向に向かってしまったように思える。

 あっ。ちょっと訂正。今、《不憫に思い、同情する気持ち》と書かせてもらった。でも、これは果たしていいのかな。不憫に思う心、同情する心に、自分を優位におく心はないか。介助するとき、《〜してやる。》という意識にならなければ幸いだ。やはりここは、対等な意識で、人として尊重するという姿勢が大切なのではないか。

 さて、『寝ている子』。これは、本標題に深く関係する。無知のままだものね。

 無知は悪である。

 こう言ったら、読者の皆さんは驚かれるかな。

 もう少し正確を期そう。

 このわたしもかつて、無知なるがゆえに、差別してしまったことがある。そのとき気づいた。

 無知なるがゆえに、無意識に、無自覚に、差別するつもりはないのに、出てしまう言葉、行動。差別される側を苦しませたり悲しませたりしてしまう言葉、行動。それが悪なのだ。

 それで、今回の事件に関係して、標題に続けて書かせていただいた《殺人者を生む》の件だが、これはあくまで特異であって、無意識、無自覚にやってしまうものではないだろう。そういう意味では、大丈夫だ。

 でも、でも・・・、冒頭書いたように、今回の事件でこうむった障がいの方々の思いは、また別だ。とても大丈夫だとはならない。それを、わたしたちは深く自覚する必要がある。

 話を戻そう。

 差別の意識はだれもがもっているという。日ごろわたしたちはそれを自覚していない。いないから何かあると出てしまうのだね。だから、障がいのある方々には申し訳ないが、誰もがもっているのであれば、出てしまったとき、

『ああ。しまった。ごめんなさい。』

 そう思えれば、またそう口に出して言えれば、救われる。そして、自分のうちにある差別意識を自覚し、学んでいこうという気持ちになる。,

 そのとき、もはや無知ではなくなる。


 ここで話題を転じよう。

 読者の皆さんは、わたしの主張について、《鉄は熱いうちに打て》ではないけれど、こういう学びを幼いうちからやっていくことが大事と・・・、そう言っていると思われたのではないかな。

 それは大事だ。大事であることは間違いない。だが、ただ交流の機会をもてばいいというものでもない。

 実は、わたしの記事は、ブロゴスにも掲載していただくことがあるが、かつて、《日本でインクルーシブ教育は実を結ぶのだろうか。》なる記事を掲載してくださったことがある。

 そのとき、ブロゴスに寄せられたコメントは、インクルーシブ教育に反対の声がほとんどだった。拙ブログに寄せられた声とはきわだって異なっていた。その反対の声の中に、忘れもしない。次のようなものがあった。引用させていただく。

 不登校児のお世話係(毎日連絡帳や手紙を書く、届ける、保健室登校したら保健室で一緒に給食を食べてあげる、等)でさえ、子供には負担になります。

 普通学級にも発達障害児、家庭に問題があり落ち着いて学習に取り組めない子、日本語が分かない外国から来た子、勉強が遅れていて授業を理解できない子、不登校児、などサポートが必要な子がいるのが普通で、更に障害児を受け入れては、大多数の子供達が心を落ちつけて勉強に集中することは出来ません。理想を追う前に、まずは目の前の子供達を何とかしてあげないと。


 不登校児のお世話係か。

 こういう実態があるのだね。いや。多いのかもしれない。公教育の現場で、このようなことが行われているのであれば、その実態に対してわたしはお詫びしなければならない。

 係にしてしまうものではないだろう。負担を感じさせてしまったら失敗だ。

 こんなことをしていたら、障がい児のお世話係。たぶん、《お世話してあげる》という意識になってしまうだろうね。第一、障がい児に対し失礼だ。
 
 子どもの内面を育むことなく、形だけの交流では、まあ、それでも殺人にはつながらないだろうが、《もう、こんなことはまっぴらごめん》という意識はかなりの確率で養われてしまうだろう。

 もう一つある。こうした実践とはいえないような営みは、同コメントにもあるように、《これもやる。あれもやる。その上さらにこんなことまで。》《落ち着いて学習できる状況ではなくなる。》という考え方だ。

 お世話係では、こうした意識になるのもむべなるかな。

 でもね。Cさんのお父さんからのメールにもあったように、地域のお祭り、盆踊りなどで、自然発生的に生まれる交流。こうした子どもには負担感などないはずだ。喜び、うれしさ、そうした思いだろう。

 同コメントには、《理想を追う前に》とあった。

 これだけはご理解いただきたい。理想ではないのだ。わたしの書いている実践は、至らない点は多々あるにしても、我が地域においてかなり根づいている。

 だから、インクルーシブ教育に反対するのではなく、そうした実践が増えるように、そのための手だてを考えるのが、大切なのではないか。

 そうして初めて、無知ではなくなる。偏見もなくなる。差別も同様だ。

 国、地方公共団体に要望したいことがあります。

 待機児童の解消、そのための保育士の待遇改善。それも大切です。大切ですが、数字ばかりが取りざたされています。その状況は問題ではないでしょうか。数だけそろえればいいというものではない。それを今回の事件は立証しています。

 働く人の意識を上げるためにどうするか。いや。人々の意識ですね。それを、はやりの審議会などでまじめに議論し、メディアの関心を集め、国民を巻き込んだ形での議論が盛んになるよう、願わずにはいられません。

 また、ヘイトスピーチ対策法が成立したのはよかったのですが、ちょっと遅きに失しましたね。

 こうした状況が、一部に差別意識をつのらせたのではないでしょうか。なお一層の対策を考えて、徹底防止を願いたいものです。

 最後になってしまいましたが、今回の事件の犠牲になられた方々には、謹んで哀悼の意を表します。また、けがされた方々が心身ともにお元気になられる日が一刻も早く訪れますよう、お祈り申し上げます。

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