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覚せい剤輸入事件の裁判員裁判が再び揺れ始めた

先日、千葉地裁でシンガポール人女性被告人に対して無罪が言い渡され、裁判員裁判の導入以来、これで21人の被告人に無罪が言い渡されたことになります。

5月には、千葉地裁で、浄水器のフィルターに約2.3キロの覚せい剤を隠して密輸した罪に問われたタイ人男女2名の裁判員裁判で、被告人2名は、フィルターの運搬を依頼した知人女性を信頼しきっており、覚醒剤が隠されていることを疑わなかったという主張は不自然とはいえないとして、無罪が言い渡されたところです。

制度導入から今年5月末までで、裁判員裁判全体で、無罪が言い渡された被告人は52人であることを考えると、覚せい剤取締法違反での無罪判決が、いかに突出したものであるか、おわかりいただけるでしょう。ちなみに、罪名別で2番目に無罪が多いのは殺人で、5月末までで11人となっています。
<ニュースから>*****
●覚醒剤密輸事件、シンガポール人女性に無罪 東京地裁「違法薬物の認識なかった」
スーツケース内に隠した覚醒剤約2.5キロを密輸しようとしたとして、覚せい剤取締法違反(営利目的輸入)などの罪に問われたシンガポール国籍の女性(43)の裁判員裁判の判決公判が20日、東京地裁で開かれた。辻川靖夫裁判長は「違法薬物を運搬している認識はなかった」として無罪(求刑懲役12年)を言い渡した。
辻川裁判長は「出会い系サイトで知り合った男性からスーツケースの運搬を頼まれた際の友人とのやり取りや、税関でスーツケース内の覚醒剤が発覚したときの被告の言動からは、被告がスーツケース内に違法薬物が入っているかもしれないと認識していたとは認められない」と指摘した。・・・
産経ニュース2016年7月20日 18:14
*****

●「知っている」と「知らなかった」のわずかな差

こうした密輸計画を主導しているのは、国際的な薬物犯罪グループで、中国系の密輸組織やメキシコのカルテルのような巨大組織が取り仕切る大型密輸から、外国に人脈のある個人による小口密輸まで多様ですが、当然、犯罪の主要な部分は外国で計画されます。
しかも、覚せい剤を日本に運搬してくる人たちの多くは、密輸計画の首謀者と面識もないまま、荷物の運搬を依頼された運び屋で、覚せい剤など見たこともない人も珍しくありません。

空港などの税関で、手荷物から覚せい剤が発見された時、運搬役の多くは、「薬物が入っているとは思わなかった」と主張します。じっさい、彼らは密輸の具体的な事情は知らされないまま、様々な口実で、わずかな報酬と引き換えに、荷物の運搬を頼まれているのです。依頼の口実は、急ぎの商品見本、日本の友人に渡すお土産、高級腕時計、ブランド品のサンプル、最近の例では紙幣のマークを洗浄する特殊なオイルを運ぶよう頼まれた例もありました。

依頼主の言葉を信じ切って、不信感も抱かないまま荷物を運んだ人が、処罰されるはずはありません。じっさい、税関検査で手荷物から覚せい剤が発見されたとしても、調査の結果、薬物を運搬しているという故意が認められないとして、起訴されずに済むケースも結構あります。また、裁判では、手荷物の中に覚せい剤が隠されていることを知らなかったという被告人の主張と、様々な間接証拠と突き合わせながら、その真偽を見極めることが中心になります。
ただし、ここで問われる「知っている」と「知らなかった」の差は、ごくわずかなものです。

一度は依頼主の口実を信用して荷物の運搬を引き受けてみたものの、それでも、あまりに不合理な依頼の仕方に、「もしかしたら、覚せい剤など法に触れる品物を運ばされるのではないか」という疑いを抱いたのではないか。あるいは、秘密に包まれた依頼主の様子などから、「鉄砲や覚せい剤などが入っているかもしれない」と感じたはずではないか・・・。こんな疑いを感じながらも、「それでもかまわない」という気持ちで荷物を運搬した場合は、少なくとも未必的な故意がありながら密輸の罪を犯したとして、有罪と判断されるのです。

覚せい剤輸入事件の裁判は、疑問や迷いの連続です。裁判員の率直な感覚からすれば、わずかな間接証拠だけで、判断することにためらいがあって当然でしょう。

●ふたたび動き始めた無罪判決

裁判員裁判で無罪判決が増えたことは、関係各機関に大きな影響を及ぼしました。検察庁、警察、税関は検討会や研究会を重ねて対策を協議し、立証方法の見直しも進みました。弁護士のなかにも、勉強会などを通じてこの種事案への取り組みを強化する動きも目立っています。

いっぽう裁判所にも様々な反応がありました。とくに目立ったのは、高裁や最高裁の動きです。
これまで、裁判官による裁判で積み重ねてきた精緻な認定手法からみれば、あまりにも隔たりの大きい判決に対して、まず、高裁による逆転有罪判断が相次ぎました。覚せい剤輸入事件で1審の裁判員裁判で無罪となった事件が、控訴審で逆転有罪となったケースは、これまでに5件(1件は一部無罪事件、ほかに差戻しが1件)です。

さらに、最高裁の判断も裁判の流れに影響を及ぼし始めます。当初、最高裁は、1審の裁判員裁判の判断を尊重する方向を示し、裁判員裁判で無罪になった最初の事件では、高裁による逆転無罪判決を破棄して、改めて無罪を言い渡しました。

しかし、その後は、高裁で逆転有罪となった事件について、最高裁は一貫して高裁の判断を支持し、上告を棄却する決定をしています。しかも決定に際して、「所論に鑑み、職権で判断する」として、最高裁の見解を示すケースが続きました。

2014年春以降、重要判例とされる最高裁決定が相次いで3回示されていますが、そこでは、裁判官、検察官の責任などにまで踏み込んで、1審での認定のあり方について具体的な意見を述べたものもありました。

 ■平成25年4月16日 最高裁判所第三小法廷 決定
 ■平成25年10月21日 最高裁判所第一小法廷 決定
 ■平成26年3月10日 最高裁判所第一小法廷 決定

また、より具体的な対策として、裁判員裁判を意識した事案の調整も行われたようで、2015年には、裁判員裁判に付される覚せい剤輸入事件が半減しました。そういえば、公判で有罪立証に困難が予測される事案については、輸入罪での起訴を見合わせたと思えるケースもいくつかありました。

こうした様々な対策の結果でしょうか。2014年秋以降、覚せい剤輸入事件の裁判員裁判での無罪判決が途絶え、2015年はゼロとなりました。

<裁判員裁判での覚せい剤輸入事件・無罪判決>
2009年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0人
2010年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1人
2011年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5人
2012年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4人
      一部(覚せい剤輸入部分)無罪・・2人
2013年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5人(4事件)
     一部(覚せい剤輸入部分)無罪・・・1人
2014年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3人
2015年 無罪判決・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0人

しかし、行き過ぎた面もあったのかもしれません。様々な検討や対策が投入されたことが、裁判所の内外に無罪判決を出すことを警戒する空気が生まれてしまったように感じます。
そしてその結果が、裁判員裁判で有罪となった事件に対して、相次いで、高裁が逆転無罪や差戻し判決を下す、という流れとなって現れました。

そして、高裁による逆転無罪判決に刺激されたのか、しばらく途絶えていた裁判員裁判での無罪判決が、再び言い渡されるようになり始めたのです。これは、新たな局面の始まりなのかもしれません。

でも、その反面、近年では、覚せい剤密輸の手法に変化が生じ、運び屋による携帯輸入が減少傾向を示しています。もしも運び屋による覚せい剤輸入事件そのものが、長期的に減少するなら、裁判上の諸問題も、やがては自然解決となるのかもしれません。

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