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「全面敗北」皮肉な結果を生んだ強国路線のツケ 南シナ海仲裁判決を絶対受け入れない習近平の危機感 - 城山英巳 (時事通信社外信部記者)

 オランダ・ハーグの仲裁裁判所は7月12日、南シナ海における中国の主権を全面的に認めない判決を下した。国際社会や海外メディアは判決前から、中国共産党・政府が、国際法に基づく裁決を尊重すべきだと訴え、中国が国際ルールや国際機関を尊重する「責任ある国家」がどうかの試金石になると指摘していた。しかし中国は西側諸国から圧力が加えられればより意固地になり、独自の道を歩む。習近平指導部は「宣伝戦」「外交戦」「軍事戦」を駆使し、伝統的な「統一戦線」と「持久戦」で危機を乗り切る戦略を展開するだろう。

フィリピンと「一戦の覚悟」

 判決は中国の行動が国連海洋法条約違反だと訴えたフィリピンの勝訴、訴えられた中国の「全面敗北」となった。中国が南シナ海の大半を囲み、「歴史的権利」と主張する「九段線」に関しても「国際法上の根拠がない」と一蹴する、という予想以上に踏み込んだ内容となった。もはや国際法の論理で中国政府が南シナ海をめぐる従来の主張を押し付けることはできなくなった。

 「中国の夢」「中華民族の偉大な復興」という政治スローガンを掲げ、2012年11月に登場した習近平共産党総書記(国家主席)は、歴代指導者の誰よりも主権や領土に固執し、決して妥協を許さない指導者だ。にもかかわらず、今回は国際社会に主権を否定される皮肉な結果になった。これは習主席が進めた露骨な強国路線に周辺国が反発したツケと言えた。

 北京にいた筆者が、南シナ海の異変が表面化したのは12年4月、スカボロー礁周辺で中国の海洋監視船とフィリピンの艦船が2カ月にわたりにらみ合いを続け、中国側が事実上支配してしまったことだった。中国政府は同年6月、南シナ海に三沙市を創設したと突然発表。胡錦濤・温家宝時代末期だが、次期総書記に内定していた習近平国家副主席(当時)が内政・外交の実権を握っていた。その頃、北京の共産党関係者は「中央は南シナ海でフィリピンと一戦交えることも辞さない覚悟だ」と話していたのを覚えている。

妥協許さない政治風土

 強国路線をむき出しに、ナショナリズムを高めつつ、「中国が新たな秩序をつくり、他国はそれに従え」と言わんばかりの中国対外戦略の変化が表れたのは2008年から09年にかけてだ。08年の北京五輪を一応は成功させ、リーマンショックからいち早く抜け出した自信を背景に、習氏は「社会主義体制の絶対堅持」「領土・主権の断固防衛」ということを最優先に、国内では「体制に脅威を与える言論や人権派への激しい弾圧」、国際社会では「野心的な海洋進出」に関して手段を選ばなくなった。

 朝日新聞は仲裁判決を受けて13日付朝刊の社説で「国際法による秩序の発展に責任をもつ国になるのか、それとも秩序に挑戦する国か。中国の習近平政権は、その岐路にあることを自覚すべきである」と指摘した。しかし習近平は国際孤立を深め、国際的イメージを損なうと分かっていても、この二つの問題で決して妥協することはない。

 その背景には、現在の共産党独裁体制が受ける脅威として、一つには「(共産党体制と対峙する)民間社会の台頭」、もう一つは「海外敵対勢力の浸透」に強く警戒していることがある。しかし特に後者の問題で妥協すれば、「売国奴」とみなされる。後世の名声に最も敏感となる中国の最高指導者として「妥協」は非、「抵抗」は正義とみなされる。西側の諸国・価値観や領土・主権が侵害される事態への徹底した抵抗が美化される政治風土は変わっていない。

天安門事件以降の最大の外交打撃か

 「巨大な外交的打撃だ。おそらく1989年以来で最大のものの一つだろう」。香港英字紙サウス・チャイナ・モーニングポストは、仲裁判決「全面敗訴」が中国にとって89年6月の天安門事件で西側諸国から受けた制裁によって国際的孤立に陥った際に匹敵するものだという専門家の論評を掲げた。

 当時の中国外交責任者・銭其琛の回顧録『外交十記』によると、最高権力者・鄧小平は、同年7月に極秘訪中したスコウクロフト米大統領補佐官(国家安全保障担当)に対してこう言い放った。

 「中国人は中国人としての気概と気骨を持たなければならない。解放後、我々は米国と戦争した。あの時、我々は絶対的に劣勢だったが、恐れたことはなかった」

 「中華人民共和国の歴史は、共産党が人民を指導し、抗米援朝(朝鮮戦争)も加えれば25年間も戦争を続け、2000万人以上に上る犠牲の上にやっと勝ち取ったものだ。中国の内政にはいかなる外国人も干渉させない」

 89年11月、中国指導部の招請に応じて北京を訪問したキッシンジャー米元国務長官も回顧録で、銭が「中国は自らの国益によって規定される自らの歩調で動き、外国人の指図は受けない、として、説明に耳を貸そうとはしなかった」(『キッシンジャー回顧録中国(下)』岩波書店)と明かした。

 当時も今も共産党指導部は、天安門事件や南シナ海問題などは、体制・主権問題に関わる内政問題であり、外交マターと捉えていない。他国と比べても、国益と完全一致しない限り、外交は一歩も前進しない傾向が強い。今回の仲裁判決でも、「外圧」を受けた形での妥協は決して選ばない。

尖閣国有化時と似た事後処理

 中国政府は、仲裁判決の結果を「想定内のものだ」と内外に「中国の余裕」を感じさせる宣伝工作を重視した。「紙クズ」「茶番」と強気の発言を繰り返した中国指導部も実は、内心では屈辱的な仲裁判決に対する対応を間違えれば、国際的孤立は深まり、中国の国益を損なうと憂慮しているのは間違いない。中国外交は突発事態への「戦略」は苦手でも、予想される事態に対して自国の主張が崩れないよう独自の論理を組み立てる「事後処理」には長けている。実は仲裁裁判判決後の対応は、日本政府による尖閣諸島国有化(12年9月)の際の経過と似ている。

 最初に着手したのは「宣伝工作」。例えば、仲裁裁判所の判決内容の発表は日本時間午後6時だが、中国国営通信・新華社が「不法無効ないわゆる最終採決を出した」という至急電を配信したのは英語版が発表前の午後5時39分4秒、中国語版が同6時00分12秒。極めて迅速な反応だ。中国政府はもともと自分たちに不利な裁定になることは掴んでいたが、発表前に当事国に通告された内容を基に新華社を通じて公表した。「紙クズ」と言いながら、判決がもたらす重大性やセンシティブさというものを「スピード」によってまずは国際社会に、続いて国内に認識させようとしたのだ。

 新華社通信を見ると、その後も、中国政府声明(6時44分)、外務省声明(同48分)、国防省声明(同57分)と相次ぎ発表。続いて習近平が訪中していた欧州連合(EU)のトゥクス大統領との会談で仲裁判決に触れ、「中国は南シナ海領土・主権や海洋権益の問題で、いかなる状況下でも裁決の影響を受けず、裁決を基にした主張や行動を受け入れない」と反発した。李克強首相もトゥクス氏に「国際法に基づき、交渉協議を通じて争いを平和的に解決する」という公式見解を表明した。2人に先立ち王毅外相の談話も公表され、王氏は「仲裁案件は徹頭徹尾、法律の衣をまとった政治的茶番であり、この本質は徹底的に暴露されなければならない」とより強い言葉で反論した。

 公式声明に続き、外国要人との会談で最高指導部が問題に触れ、問題のステージを上げ、「譲れない問題」だとアピールするのも尖閣諸島国有化の際の対応を踏襲した。声明に続き「白書」を発表して自国の立場をさらに宣伝する手順も同じである。

日米は「敵」、フィリピンを「味方」に

 外交工作は宣伝工作とリンクしているが、外務省報道官談話を見れば一目瞭然だ。仲裁判決の順守を求めた岸田文雄外相の発言に対して、「仲裁裁判の裁判官を選定した国際海洋法裁判所所長だった柳井俊二氏が、安保法制をめぐる安倍晋三首相の私的諮問機関の座長を務めた」と指摘し、「仲裁裁判は最初から政治問題化していた」と反発。また仲裁判決に「法的拘束力がある」と述べた米国務省報道官の声明には「米国は国連海洋法条約に加盟していないのに、とやかく言う資格はあるのか」と反論した。

 一方、中国政府は、提訴の当事国であるフィリピンの現政権には批判の談話を出すどころか、13日に発表した白書のタイトルを「中国は南シナ海の争いをフィリピンとの交渉を通じて断固解決する」とした。50ページの冊子でかなり前から判決を予想して作成したとみられる。習近平は、ドゥテルテ新大統領就任の祝電で「中国とフィリピンは引っ越しできない近隣だ」と持ち掛けた。これは、日本と接近したい時にもよく使ったフレーズで、「秋波」に近い決め文句だ。

 中国政府は、仲裁判決を棚上げしてフィリピンとの交渉を進めると断言しているが、ドゥテルテ政権は自分たちに有利な判決に基づき対中交渉を進める構え。習近平は経済協力などをちらつかせ、ドゥテルテ大統領や特使を早期に北京に招待するなどして抱き込み、仲裁判決に関係なく二国間で交渉が進められることを示し、日米などが口出しする余地をなくしたい狙いだ。

 さらに中国外務省報道官は、実効支配する太平島が「岩」と位置づけられ仲裁判決に反発した台湾に向けて「海峡両岸の中国人は、中華民族に残された祖先からの財産を共に守る責任と義務がある」と呼び掛けた。「一つの中国」を受け入れず交流を停止した蔡英文政権に対して「共闘」を呼び掛けたと受け止められるコメントを素早く公表したことは注目に値する。

 「敵」と「味方」に分け、味方を取り込み、敵を牽制する統一戦線工作は中国の伝統的な対外戦略だ。共産党中央対外連絡部が12日、「90カ国以上と230以上の政党・政治組織が南シナ海問題での中国の立場を公開で支持した」と発表したのは、統一戦線を順調に進めているよう見せる宣伝工作の一環だ。新華社は中国の支持者としてキルギス、モンゴル、パキスタン、バングラデシュの友好人士を挙げたが、どこをどう計算すれば、「90カ国以上になるのか」と疑問視するのが大勢の見方だ。

 いずれにしても日米は「敵」であり、これまで敵だったフィリピンのほか、緊張関係にある台湾に近づき、日米を牽制しようとする外交宣伝を展開している。しかし現実はどうだろうか。国際法を極めて重視する欧州諸国が仲裁判決を軽視することはなく、東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国の中でも中国と距離を置く国が増えている。結局のところ統一戦線工作はうまく進まないだろう。ただ中国当局の宣伝に操作されている国内世論を有利な方向に誘導する効果はあるのかもしれない。

「統一戦線工作」と「持久戦」

 最後の「軍事戦」では、判決に先立つ7月5〜11日、南シナ海で大規模な軍事演習を展開し、軍事力で主権を誇示した。また実効支配を示すため、12、13両日に南沙(英語名スプラトリー)諸島の滑走路で民間機が試験飛行を行った。

 国際圧力に対抗するため、習指導部はますます、南沙諸島での軍事拠点化などを今後も続けるのは間違いない。中国の人工島周辺への「航行の自由作戦」を強化する米軍との武力衝突の可能性は以前より高まったと言える。なぜなら判決への妥協が許されない政治環境の中、より強い決意で領土・主権問題に臨むことになった習指導部が「引く」という選択肢はあり得ないからだ。

 当面は「宣伝戦」と「外交戦」を前面に出し、国際社会との過度な摩擦を避けるだろうが、機に及んで「当然権利はあり、我々の総合的判断で決まる」と主張する南シナ海防空識別圏の設置も中期的な目標として念頭に置いているとみられる。長期的な持久戦で主権を主張し続け、その裏で南シナ海の実効支配を既成事実として積み重ねていく戦略も変わらないだろう。

自ら煽ったナショナリズムに怯える

 習指導部が国際社会での孤立と同様に、より危機感を感じているのは、もしたかしたら国内の反応だったのではないか。習近平は就任以来、「中国の夢」などを掲げて国民向けに民族・愛国感情を煽ってきた。そのナショナリズムが仲裁裁判の全面敗訴によって火が着き、熱しやすい国民が、習指導部の対国際社会「弱腰」姿勢への追及を強め、その結果として批判の矛先が自分に跳ね返ってくる事態を恐れた。

 インターネット上で話題になった「緊急通知」がある。発出したのは、北京市応急弁。首都で緊急突発事件が発生した際に対処する部署だ。緊急通知は12日午前8時から17日24時(18日午前零時)まで各部門に対して応急対策について24時間態勢で「戦時状態」に入るよう指示している。

 北京市当局はフィリピン大使館前で警戒に当たる警官数を大幅に増やし、大使館前の道路を封鎖した。本当にフィリピン大使館前に抗議に行くほど、判決に強烈な怒りを抱えた人たちがどれだけ存在するか定かではないが、当局は不測の事態を何としても避けようとした。

 2012年9月の尖閣国有化に伴う大規模かつ暴力的な反日デモでは、北京の日本大使館が標的になった。これは、地方の農村も含めて大量の人たちが動員され、警察当局も黙認した官製デモであったが、全国レベルでナショナリズムが爆発した反日デモを容認した習近平は、自身が最高指導者に就く年5年に1度の党大会(12年11月)を控え、国内的に主権・領土問題で一歩も譲歩しない強力な権力を誇示する必要に迫られた。

 しかし今回の仲裁判決でナショナリズムが高まり、社会にあふれる不満に火が着けば、「反共産党・政府」に転じかねないと神経を尖らせた。政府・外務省・国防省、官製メディアが一体となって判決批判の宣伝キャンペーンを展開した背景には、国内向けに「指導部はしっかり批判しているから、我々に任せてほしい」というメッセージを送り、熱しやすい国民をなだめる狙いがあった。

「中南海」にこそ問題

 共産党指導部にとって天安門事件以降も、欧米など西側諸国から一斉批判を浴びた事件は数多い。民主派作家・劉暁波氏の拘束と懲役11年判決、その後のノーベル平和賞受賞(2008〜10年)に対する反応もそうだし、最近では人権派弁護士やNGOに対する弾圧、中国共産党批判本を扱う香港の書店関係者の越境連行もその一例だ。今回の南シナ海の仲裁判決をめぐっても、改革派知識人の間から出てくる指摘は、「法の支配」を無視する共産党体制に本質的な問題がある、という観点だ。

 ネット上では「南海(南シナ海)問題はない。あるのは中南海(共産党政権)問題だけだ」という皮肉あふれる書き込みが転送された。北京の外交筋は「南シナ海も、言論・人権弾圧も突き詰めれば、根っこは同じで、共産党体制に根本的な問題がある」と漏らす。

 中国共産党・政府が国際ルールや法の支配を無視するという事態は今に始まったことではない。ただ習近平体制になってより鮮明になったのは、「カネ」(経済支援)と力(軍事的な圧力)を駆使して「中国共産党にすり寄る国家だけを抱き込んでいく」という「歪んだ協調路線」だ。既存の国際秩序から離脱する傾向は強まり、周辺国への高圧的な拡張路線を進めた結果として国際的孤立はますます深まっている。

 どうすれば中国共産党が国内的にも、国際社会においても法を順守する国に変わるか。仲裁判決に対して何と反発しようと、EUやASEANを含めた国際社会からそっぽを向かれることは避けたいのが習近平の本音だろう。列強に侵略された屈辱の歴史がいまだトラウマとして残り、主権・領土問題になると過剰に反応する中国指導部に、仲裁裁判の判決に順守させるのはほぼ不可能に近い。ただ強気の姿勢を誇示する習近平が国際的孤立を恐れる中、仲裁判決を切り札にして、「法の支配」が国益にかなうと、共産党・政府にも、国民にも認識させる外交努力が、日本を含めた国際社会に求められる。そして国内でも今回の判決が「法の支配」を意識する転換点になることを期待したい。

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