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【戦国大名 究極のサバイバル戦略】上杉謙信 神になった名将 関白と交わした血書 - 谷口研語(歴史学者)

越後から強力軍団を率いて、武田・北条に挑んだ関東平定。
将軍家への接近、関白との血盟―名将の知られざる真実

 上杉謙信は様々な意味で、突出した個性を放つ戦国大名である。

 まず、その軍事的な強さ。武田信玄との川中島の合戦が有名だが、その他、数多くの戦場に赴きながら、攻め切れずに撤退を余儀なくされることはあっても、決定的な敗北を喫したことはほとんどなかった。

 さらに、謙信は武将であると同時に、強い宗教的カリスマの持ち主でもあった。毘沙門天を信仰することきわめて篤く、合戦の前には軍神を召喚する「武禘式」を執行した。弘治2(1556)年には出家したいと言い出し、居城だった春日山城から高野山に向かおうとしたこともあった。また生涯妻帯せず、晩年にはますます密教への帰依を深め、阿闍梨権大僧都の位階を受けた。その遺骸は居城に祀られ、今も上杉神社の主祭神となっている。

 しかし、戦国大名としてみた場合、最も突出しているのは、謙信が室町幕府や朝廷といった、もはや衰退してしまった旧体制を本気で復興させようと考えていたことだ。そのため、謙信は自ら関東管領となり、たびたび上洛し、時の関白、近衛前久を関東まで連れ出して、ともに戦おうとしたのである。

 ある意味で、謙信は「下克上」に逆行した復古革命を目指していたのだ。

関東管領の守護者として

 そもそも関東管領とは何か。

 室町時代、関東には、幕府の出先機関である鎌倉府が置かれていた。その鎌倉府のトップ、鎌倉公方こそが関東武士団の頂に立つ存在であり、鎌倉公方を務めてきたのは、二代将軍足利義詮の弟、基氏の子孫だった。

 しかし15世紀になると将軍家への反抗を繰り返し、幕府の追討を受けるなどして、鎌倉公方の勢威は衰える。鎌倉を維持できず、下総古河に移って以後は、古河公方と称された。それに代わって、関東武士の盟主的存在となったのが、本来、公方を補佐する役目だった関東管領、上杉氏であった。

 しかし、その関東管領も、伊勢長氏(北条早雲)に始まる小田原北条氏に圧迫されて、昔日の面影を失くしていく。従来の権威が通用しない戦国時代に移っていたのである。

 戦国時代の東国では、甲斐の武田氏が信濃に進出するなど、実力主義の領土拡大の動きが活発化していった。天文23(1554)年には、相模北条・甲斐武田・駿河今川がいわゆる三国同盟を結ぶが、直接対決を回避した三国は、各々さらに周辺地域への進出を強化したのである。

 そうした動きの中で異質だったのが、長尾景虎、すなわち上杉謙信だった。越後守護代長尾為景の子として生まれた景虎(以下、本文では上杉謙信で統一)は、幼い時から仏門に入るも、父の没後、還俗。その後、兄晴景と争った末、天文17(1548)年、守護代の地位に就き、春日山城主となる。

 ほどなくして、実質的に越後の国主となった謙信は、天文21(1552)年、関東管領、上杉憲政が北条氏に圧迫され、本拠地の上野平井城を逃れると、これを助けて上野への帰還を支援した。そして、永禄元(1558)年、またも北条氏に圧迫された上杉憲政は、ふたたび謙信のもとに逃れてくる。つまり、謙信は関東管領という旧体制の守護者としてのポジションを明確にしていったのである。

上洛の真の目的は

 このような情勢のなかで、永禄2(1559)年、謙信は上洛する。彼自身、二度目の上洛だった(一度目は天文22年。参内して、越後と隣国の敵 ― 具体的には信濃制圧を進める武田信玄―を討てとの勅命を受けた)。

 前年の永禄元年十一月、畿内では将軍義輝と三好長慶との和睦がなり、義輝は5年ぶりに近江朽木谷から京都へ帰還した。謙信の上洛は、表向き、この還京を賀すためとしていたが、真の目的は別にあった。

 永禄2年4月3日、5千といわれる供を従えて越後春日山を発った謙信は、27日には入洛し、5月1日に参内、5月下旬には将軍義輝に拝謁する。そして、6月26日、4通の義輝御内書が発行された。

 謙信上洛の真の目的、それがこの十三代将軍義輝の御内書であった。

 その内容は以下のごとし。

 第一は、将軍家一族と三管領に準ずる文書様式の使用を認めたもの。
 第二は、漆塗りの輿の乗用を認めたもの(国持大名に準ずる待遇)。
 第三は、関東管領上杉憲政の処遇について謙信に一任したもの。
 第四は、対武田問題で、信濃諸将に対する謙信の指揮権を認めたもの。

 このうち特に重要なのは、いうまでもなく第三、第四の事項である。すなわち、これによって、関東諸将とりわけ相模の北条氏康、甲斐の武田信玄に対し、幕府秩序においては、謙信が上位にあることが認められたのである。つまり、将軍の権威をバックに、関東を押さえる。それが謙信の目的だったのである。

 この将軍義輝と謙信との交渉は、京都の政情にも絡むものだったと推測できる。室町幕府権力の回復に上杉の軍事力を使う、そこまで話は及んだであろう。

 どちらかが相手に対して不信感を抱けば、交渉そのものが決裂する微妙なものだったはずである。京都はまだ三好氏の制圧下にあり、謙信の供の中にも、戦乱の絶えない関東を離れての上洛を快く思わない勢力もあったはずである。

 この微妙な交渉を仲介したのは近衛稙家・前久(この時点の名は前嗣)父子であった。

 この近衛前久こそ、戦国時代の朝廷・公家勢力のキーパーソンといえる存在である。のちには、信長と石山本願寺の調停などに尽力、秀吉を猶子として関白政権への道を開き、家康にも徳川姓を斡旋するなど、天下統一事業と深く関わった人物である。

 義輝・謙信会談当時、24歳だった前久は、すでに関白の地位にあった(18歳で就任)。関白とは、天皇を補佐して朝廷政治を執り行う朝官の最高位であり、しかも将軍足利義輝の母は前久の叔母、義輝の正室は前久の姉という、足利将軍家ともきわめて近い立場にあった。

 当時、朝廷・公家の権威が凋落するなかで、前久は実力回復に意欲を燃やしていた。そして、自分に重要な政治的立場を与えてくれる武将の出現を切望していたのである。

 そんな前久の前に現れたのが謙信であった。前久は交渉を仲介するなかで謙信に傾倒し、両者は急速に親密になる。若き関白が求めていたもの、それこそ謙信の復古主義的な政治姿勢と、不敗の軍団の軍事力であった。

血で記した「密事」

 この年六月十日前後のことである。前久は供を二人連れただけの「いかにも忍び候」格好で近江坂本の謙信のもとを訪れ、重要な会談を行った。この直後、前久は謙信に書状をしたため、「与力同前」の覚悟を表明、二十一日には、文字を血で記した血書の誓紙を交換した。

 この謙信と前久が交わした血書の誓紙のうち、前久が謙信に与えたものが上杉家に遺されている。

 その内容は、

 一、謙信を一筋に頼んで遠国へ下向する決意であることは、いささかも偽りではない。
 二、謙信と進退同前に成り、別心はまったくない。
 三、密事は他言しない。
 四、謙信から在京中にも頼まれるようなことがあれば、才覚の及ぶ限り疎意なく馳走する。
 五、のちのち謙信について不審な話が聞こえた場合は、謙信にも知らせて確認をとる。
 六、互いに心中には疎略ないのだから、もし不礼のことがあっても遺恨は持たない。

 ここに見える「密事」とは何だったのか。この後の行動から推して、二人の間で話し合われた「密事」とは、以下のような戦略構想であったと想定することができる。

 すなわち、謙信が関東管領となり、数年のうちに関東平定を完了する。そして謙信が上洛して、畿内を平定し、室町幕府を往昔の姿に復す―。

 さらに、それを実現する手段として、二人が決定したのは、日本史上前例のないプランだった。すなわち、「現職の関白自ら関東で戦う」ことである。

 関東管領の謙信が、古河公方足利氏ばかりか、京都朝廷の関白前久をも擁したならば、関東平定はより容易になるだろう。関東には古河公方を据えておき、ただちに謙信と前久で、関東の軍勢を率いて上洛する。

 それが二人の「密事」であった。

 事実、謙信が永禄二年十月に越後へ帰国すると、それに遅れること約1年、前久は、正親町天皇の即位式などの諸事情をクリアして、越後へと下向した。永禄3年9月18日、天皇に暇乞いをし、翌19日に出京。史上初めて現任関白が東国の地に向かったのである。  前久が春日山城下に到着した時には、すでに謙信は関東へと越山していた。謙信自身の越山はこれが最初であった。

 関東全域制覇を目指す北条氏康の動きに対して、関東の反北条勢力は謙信の出馬を懇請、ついに謙信は上杉憲政に供奉するという名目で、8月末、春日山城を発った。その軍勢八千という。この謙信の越山時期は前久の下向決定をうけてのものだったに違いない。

 謙信は翌4(1561)年3月、北条氏の本拠、相模小田原城を包囲する。謙信が南下するや、関東諸将は次々と靡き、小田原城包囲の軍勢は十一万に膨れ上がったという。

 結局、謙信は一ヶ月にわたって、関東一の堅城といわれた小田原城を包囲したが、攻め落とすにはいたらなかった。やがて囲みを解くと、閏3月、関東諸将の見守る中、鎌倉鶴岡八幡宮の社前で関東管領襲職・上杉襲名の式を挙行し、上杉憲政の偏諱をうけて政虎と名乗った。

 永禄4年5月下旬か6月初旬、前久は越後府中から上野厩橋へ越山し、ほどなく謙信も厩橋へ凱旋した。謙信はただちに越後へともどったが、前久を伴わず、その後、前久を下総古河城へ入れた。この古河城への入城という戦略は、謙信と前久の間で意思統一されていたものだろう。

 前久の古河城入城に先んじて、謙信はじめ関東諸将によって古河公方に擁立された足利藤氏も古河城入りしている。

 こうして謙信は関白と古河公方、この二つの権威を古河城に集結させた。つまり謙信は、下総古河を北条氏の相模小田原に対抗する関東の「首府」にしようとしたのである。

 このころ前久は、それまでの名前、前嗣から前久と改名し、花押を公家様から武家様のものに変えている。「謙信の与力のように」「謙信と進退を共に」として関東へ入った関白前久の決意の程がうかがえる。いわば前久は「戦国武将たらんとした関白」だったといえるかもしれない。

 しかし、権威がいくら集まったところで、それだけでは権力にはなりえない。

 謙信・前久の「権威」による関東平定の企てが挫折した最大の原因は、武田(甲斐)― 北条(相模)の間に結ばれた甲相同盟にあった。

武田 ― 北条同盟に翻弄され

 古河城から越後へ帰った謙信は、休む間もなく今度は信濃へと出陣、永禄4年9月10日、武田信玄を相手に史上有名な第4次川中島合戦を行う。

 謙信が関東を去ると、北条氏はたちまち反攻に転じた。同年10月はじめには北条氏康が武蔵松山口に陣を張っている。謙信不在の関東では、諸将の間に動揺が広がっていた。北条氏が反攻に転じれば、中小の武将が独力で抵抗するのは不可能であった。当然、北条氏側に寝返る武将が続出する。やがて下野佐野氏が離反して、古河城周辺も緊張が高まった。

 第四次川中島合戦は、結局、上杉・武田両者痛み分けで終わり、武田信玄に決定的な打撃を与えることができなかった。すると十一月には武田信玄が、北条氏に呼応して上野へと侵入し、またも謙信は関東へ越山する。以後、関東の諸方面で上杉対北条・武田の戦いが続き、謙信の関東平定構想は頓挫することになったのである。

 永禄5年2月中旬、ついに謙信は前久を古河城から脱出させ、4月にはともに越後府中へ帰還した。この後、足利藤氏も古河を去って安房里見氏のもとへと帰った。

 近衛前久は謙信の慰留を振り切って、7月、越後より帰洛し、8月2日、報告のために参内している。前久の帰洛に、「腹立」したという謙信は、それでもなお関白の「利用価値」に幻想を抱いていたのだろうか。

 謙信は「自分が関東管領になったからには一時に事を成就させてみせる」と気負っていたはずである。しかし、雪深い越後の一隅に本拠を置いたまま、北関東と信濃の二方面で軍事作戦を展開するには無理があった。

 さらにいえば、武田・北条両氏の連携に、京都関白と古河公方・関東管領という古い権威をもって対峙する謙信の戦略自体、すでに時代から決定的に遅れていた、というべきであろう。そもそも東国の武士たちは、京都朝廷というものにほとんど馴染みがない。謙信は、関東武士たちの価値観とも相当のズレがあったと思わざるをえない。

 しかし、上杉謙信が良くも悪くも独自の大方針、他の戦国大名とはまったく異なる天下像を示して戦ったのは、永禄二年の上洛から、永禄五年の前久帰洛までの期間だったといえる。その後の謙信は、北条、武田と同様の力のリアリズムに基づき、領国の維持拡大を目的とした「普通の戦国大名」となったのである。

上杉謙信関連年表
1530 越後守護代・長尾為景の子として生まれる。
1548 越後守護代となる。
1552 上杉憲政を支援、北条氏康と敵対。
1553 第一次川中島合戦。最初の上洛。
1556 謙信、出家・隠居宣言。
1559 二度目の上洛。
1560 近衛前久、関東に下向。
1561 小田原城包囲戦。関東管領、上杉襲名。第四次川中島合戦。
1562 近衛前久、帰洛。
1576 高野山から阿闍梨位を得る。
越中平定。

1578 謙信急死(49)。

たにぐち けんご 1950年岐阜県生まれ。法政大学大学院博士課程単位取得。著書に『流浪の戦国貴族 近衛前久』(中公新書)、『明智光秀』(洋泉社歴史新書y)など。

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