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国家は抽象物であることについてーー天皇機関説についても考えた

「保育園落ちた 日本死ね!!!」と題したブログ記事について、次のようにツイートしたところ、急に「何をいっているんだ」という意見が集中して驚いた。

「日本」というのは実態ではなくて抽象物なので、それを中傷することは人を傷つけない。抽象物を中傷されたということで傷つくのは傷ついた側が間違いなのだと思う。保育園という実態が背後にあり、怒る愛がみえるのが、このフレーズの天才的なところ 。

 いうまでもなく、国家とは抽象物である。国家が人格性をもつかどうかというのは、国家論にとって本質的な問題である。国家は人格性をもたない、法人格と具体人格は違うという見解をベースにして美濃部達吉の「天皇機関説」があるのはよく知られた話しである。天皇は国家を代表する人格として存在しているが、それは国家の機関の一部として、機関の象徴として存在しているものであって、王として実際の人格とは区別されるものであるという訳である。

 日本が抽象物であるとは、日本国民が国籍をもつという形で形成された存在であることである。私は、歴史家のなかでも「民族」ということをもっとも突き詰めて考えた一人、網野善彦さんが、民族というのは、結局、国籍などの国家との関係だといったことは正しいと思うようになった。

 国家の構成員が国家を自己自身の構成物(哲学用語でいえば抽象物)として扱う権利をもつのは当然である。国家は構成された公共圏である。国家の主権者であるとは、構成物たる国家から自由に、それを批判する権利をもつということである。そこでは国民はたとえば、戦争犯罪など、カント的にいえば国家の非人倫的性格や行為を糺断する権利をもつ。また国家に対する革命権・抵抗権をもつというのも、近代法、近代憲法の基本原則である。これらの糺断、抵抗、革命などの権限の根本には、国家に対する諸個人の優越、国家に対する倫理的糺断の精神的自由がある。それ故にこそ、その表現の自由、言論の自由が主権者の権利の基礎にすわるのであって、その自由の範囲はきわめて大きい。

 国家というものが抽象物であるからこそ、それに対する糺断、批判、罵倒は、表現・言論の自由となるのである。こうして、「日本死ね」という表現は表現の自由の一部を構成する。最低の人間的常識さえもたない国家は社会的に存在する意味はないという糺断である。近代法原則の下では、それが表現の自由であることは認めなければならない。「抽象物を中傷されたということで傷つくのは傷ついた側が間違い」というのはそういうことである。

「保育園落ちた 日本死ね!!!」
何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が少子化だよクソ。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ。
不倫してもいいし賄賂受け取るのもどうでもいいから保育園増やせよ。
オリンピックで何百億円無駄に使ってんだよ。
エンブレムとかどうでもいいから保育園作れよ。
有名なデザイナーに払う金あるなら保育園作れよ。
どうすんだよ会社やめなくちゃならねーだろ。
ふざけんな日本。
保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。
保育園も増やせないし児童手当も数千円しか払えないけど少子化なんとかしたいんだよねーってそんなムシのいい話あるかよボケ。
国が子供産ませないでどうすんだよ。
金があれば子供産むってやつがゴマンといるんだから取り敢えず金出すか子供にかかる費用全てを無償にしろよ。
不倫したり賄賂受け取ったりウチワ作ってるやつ見繕って国会議員を半分位クビにすりゃ財源作れるだろ。
まじいい加減にしろ日本。

 このブログの文章は、無能・無責任で余計なことばかりをやっている国家に対する怒りの表現である。実際、保育所に入れない乳幼児がたくさんいて、いったいどういうことだ。「保育に欠ける」という状態は許されないというのが法律ではないか。それを守らない自治体や政府はいったい何をやっているのだ、「馬鹿め、ボケ」という批判と母親の行動は、2・3年前から存在し、東京の各区で不服審査請求が行われたのはよく知られたことである。

 そういう状態が存在することは、最近、国会で内閣が検討の必要を認めていることに明らかである。全国で何万もの乳幼児が保育所に入れないでいるというのは、客観的な事実であり、それが放置され、実態に変化がないことについて、怒りを表明するのは、タックスペイヤーとして当然のことである。

 個人に対して「死ね」といっているのではない。「何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねーのかよ」と抽象物を罵倒しているのである。抽象物を罵倒することで、強い意思と感情を表現するというやり方を承認する。それによって問題が抵抗権・革命権にまで無用に拡大することがないようにし、それによって、できる限り社会の安穏を保証するというのが国家と言論の自由の関係の知恵なのである。そのためには国家を抽象物として捉える法的態度が必須となるのである。

 もちろん、これは国家の内部的関係に関わることであって、国際的関係になれば、国家と国家のあいだ、国民と国民の間は実態的な関係となる。それ故に、我々は、たとえばアメリカ・韓国・中国の国家・国民を抽象物としてあつかうことはできない。それは我々の構成物ではなく外からは一つの実態だからである。それは歴史のなかで相互的な関係として実態として存在している。しかし私たちは日本に対してはそれを構成物として扱う憲法的権利をもつである。

 最近いただいた小路田泰直・住友陽文氏など編の『核の世紀ーー日本原子力開発史』(東京堂出版)の小路田論文を読んでもそう思うが、あらためて美濃部達吉の「天皇機関説」の意味を考えなければならないと思う。

 歴史家として、社会科学者としては、美濃部の議論の全体に賛成できる訳ではない。しかし、大正デモクラシーの時期に、この考え方が、いわゆる明治憲法についての基準的な解釈となったことはよく知られている。それに対して、天皇機関説を論難するということで日本の無謀な軍国主義と「天皇主義」は始まった。それは「日本を抽象物として扱う」ことへの軍部・極右による攻撃から始まった。右のブログに対する攻撃は論理的には同じことをやっているのである。

 この天皇機関説攻撃に社会がなびいてしまった状況が、無能・無謀・無責任な人間が戦争犯罪を遂行する基礎となったのであって、これは天皇家自身が批判と反省を表明したところである。

 この経験が、日本国憲法の天皇条項に反映していることはいうまでもない。そこには連続性がある。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」などの条項である。

 私は、歴史家として、王権というものが未来永劫に持続するものであるとは考えない。しかし、ともかく、これらの天皇条項を見るたびに、その背景に美濃部の天皇機関説をみる、そして国家を、「日本」を抽象物として扱う歴史的な省察が当然の法的態度となるための知的諸条件を蓄積し、伝えていくことの憲法的義務を感じる。

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