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難民問題で揺らぐ「シェンゲン協定」 廃止なら欧州にどんな影響がある?

 ヨーロッパでいま、大きな焦点の一つになっているのが、シェンゲン協定です。この協定は締約国間でのヒトの移動な自由を保障するもので、日本での知名度はあまり高くありませんが、ヨーロッパ統合の一つの要でもあります。ところが、難民流入問題をきっかけに、このシェンゲン協定の存続が、いま危ぶまれています。シェンゲン協定が崩壊すれば、「一つのヨーロッパ」の理念に傷がつくだけでなく、ヨーロッパに大きな経済的損失をもたらし、果ては世界全体のパワーバランスにも影響を及ぼしかねません。

シェンゲン協定とは


[地図]シェンゲン協定を実施している26か国

 まず、シェンゲン協定についてまとめます。シェンゲン協定の内容には、大きく以下の2点が含まれます。

(1)シェンゲン協定に参加する各国(シェンゲン領域)以外からシェンゲン領域に入る渡航者に、ビザ発給などで共通の基準を設ける。
(2)シェンゲン領域の内部での、パスポートなしでの移動が原則的に認められる。

 つまり、シェンゲン協定はヒトの出入りの管理を共通化し、域内での自由な移動を保障するものです。締約国によっていくつかの例外規定はあるものの、この点においてシェンゲン領域はあたかも一つの国家のようになっているのです。

 シェンゲン協定は1985年にフランス、西ドイツ(当時)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの5か国の間で、第一次協定が結ばれました。これに基づき、1993年にEU(ヨーロッパ連合)が発足した2年後の1995年、シェンゲン協定が実施され始めたのです。自由移動の対象には、日本人を含む外国人の短期滞在者も含まれます。シェンゲン協定は共通通貨ユーロとともに「一つのヨーロッパ」のシンボルでもあり、2016年2月現在、EU非加盟のスイスやノルウェーを含む26か国で適用されています。

シェンゲン協定の動揺

 ところが、そのシェンゲン協定が、崩壊の危機にさらされています。きっかけは、シリア難民の大規模な流入にありました。

 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によると、激しさを増すシリア内戦を逃れた難民は2015年末までに約460万人にのぼり、このうち約90万人がヨーロッパに流入しました。その多くは、地中海沿岸のギリシャやイタリアからヨーロッパに入り、難民の受け入れに積極的とみられているドイツや北欧諸国を目指して、陸路で移動します。

 当初、ヨーロッパ諸国は人道的な観点から難民を受け入れていました。しかし、多くの国は徐々に、難民の受け入れに消極的な姿勢に転換。その背景には、

・難民の数がこれまでになく多いこと、
・もともとヨーロッパ各国自身が経済的に停滞しており、自国民の社会保障の削減などを迫られる状況にあること、
・そのなかで外国人排斥を叫ぶ極右政党が台頭してきたこと、
・難民による犯罪が目立ち始めたこと、
・2015年11月のパリ連続テロ事件の実行犯にシリア難民が含まれていたように、難民にまぎれて過激派組織「イスラム国」(IS)メンバーが流入することへの警戒が強まったこと、

などがあります。

 特にドイツで、2015年の大晦日にケルンで発生した379件の暴行事件の犯人のほとんどが移民・難民だったことをきっかけに、難民の受け入れに積極的なメルケル首相など政府に批判的な意見が急速に広がったことは、ヨーロッパの空気を象徴します。

シェンゲン協定崩壊の危機

 シリア難民の大量流入は、シェンゲン協定を見直す動きを生んでいます。

 現状では難民が「最初に到着した国」が難民認定申請に責任を負うことになっていますが、それでは地中海に面したギリシャやイタリアの負担が大きくなりがちです。そのため、EUの実務を担う欧州委員会は、加盟各国の経済規模に応じた難民保護の分担を提案しています。しかし、国内で高まる外国人排斥の声に押されて、とりわけ2000年代になって後からEUに加盟した中・東欧諸国では、これを拒む国が続出。特に難民の移動ルートにあたり、与党が反移民を掲げるハンガリーは国境を封鎖する強攻策に出ました。

 ハンガリーへの批判はEU内部でも高まっていますが、ヒトの移動の制限はEUの中核を占める西欧諸国にも広がっています。今年1月末までに、ドイツ、フランス、デンマーク、スウェーデンなどが、6か月の期限付きで入国審査を再導入。シェンゲン協定第26条では、「例外的な状況」において協定加盟国には最長2年間、国境での入国審査を再導入することが認められており、これら各国の対応は、この条項に沿ったものです。しかし、これによってヒトの自由移動というシェンゲン協定やEUの理念が後退したことは確かです。

 各国が個別に国境管理を強化するなか、1月19日にEUのトゥスク大統領は、「国境管理を適切に管理できなければ政治的プロジェクトとしてのEUは失敗する」と述べ、危機感を露わにしました。そのうえで、3月17、18日に開かれるEU首脳会合が事態収拾の最後のチャンスであり、これで成果がなければシェンゲン協定が崩壊しかねないという認識を示したのです。

シェンゲン協定が崩壊したら

 シェンゲン協定が崩壊したら、どうなるのでしょうか。

 まず、ヨーロッパ経済への悪影響が指摘されています。フランス政府系機関の調査によると、シェンゲン領域の各国が今後とも国境管理を厳格にした場合、観光や物流が影響を受け、その損失額は向こう10年間で約1100億ユーロ(1200億ドル)にのぼるとみられます。

 さらに重要なことは、国内世論を背景に各国政府が国境管理を厳格化するなかで、ヒトの自由移動という理念が有名無実化することで、EUの求心力が低下しかねないことです。

 冷戦終結後、ヨーロッパ各国はEUとして結束することで、米国に対しても一定の発言力をもち、米国とともに国際秩序を形成してきました。しかし、ギリシャ債務問題などを契機に、既にヨーロッパ諸国の停滞は明らかです。それにともない、加盟国の間では、事態に対応しきれないEUへの不信が広がっています。なかでも英国では、2016年6月にEU離脱を問う国民投票が予定されています。

 EU不信の広がりにより、ヨーロッパ各国は自国の生き残りに必死になっており、それにつれて米国との温度差も目立ち始めています。2015年に中国主導で設立されたAIIB(アジアインフラ投資銀行)に日米が参加しなかった一方、ドイツなど14のEU加盟国と、EU非加盟のスイス、ノルウェー、アイスランドも参加したことは、その象徴です。

 この中でシェンゲン協定が崩壊すれば、EUとしての結束はさらに低下しかねず、それは欧米主導の国際秩序がますます流動化するきっかけになり得ます。その場合、欧米的な価値観や原則のみが「グローバル・スタンダード」と扱われる状況が転換するという意味で世界が多元化すると想定されますが、同時にそれは中ロなど「グローバル・スタンダード」と縁遠い国の発言力がさらに増すことをも予想させます。シェンゲン協定の行方は、ヨーロッパにとどまらず、世界全体に影響を及ぼすものといえるでしょう。

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■六辻彰二(むつじ・しょうじ) 国際政治学者。博士(国際関係)。アフリカをメインフィールドに、幅広く国際政治を分析。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学、東京女子大学などで教鞭をとる。著書に『世界の独裁者』(幻冬社)、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『対立からわかる! 最新世界情勢』(成美堂出版)。その他、論文多数。Yahoo! ニュース個人オーサー。個人ウェブサイト(http://mutsuji.jp)

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