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誰のための「真実」だったのか?――ネットの結び目の変化と意識の変化

 先日の記事に、文芸評論家の藤田直哉さんから以下のツイートを頂いた。

あったあった。「ある」という思い込みが(ぼくに)あった。「インターネットに「真実」があったのは、何年前ぐらいまでだったのか - シロクマの屑籠 (id:p_shirokuma / @twit_shirokuma) URL

2015-07-13 22:34:19 via Twitter Web Client

 これを読んでふと思い出した。

 西暦2000年前後の私は「インターネットにはテレビや新聞に載ってないたぐいの真実(実話)がある」と間違いなく思っていた。藤田さんもそうだったらしいし、私のネット仲間達もそうだったと思う。

 でも、当時の「ネットに実話が書かれている」は、単に読み手としてそう思っていたわけではない。

 あの頃の私達は、ネットの読み手であるとともに書き手でもあった。ROM(read only member)もいただろうけれども、「ネットだけの実話」を掘り起こしていた人間は、しばしば実話を書く側でもあった。読み手としての「ネットでしか読めない実話がある」は、書き手としての「ネットでしか表明できない実話がある」と表裏一体をなしていた。

 当時のウェブサイトと、そのウェブサイトの書き手/読み手の意識は現在とかなり違っていた。

 十年以上前の、きわめて個人的で趣味的な無数のウェブサイトとその書き手達。彼らは“世間”に向かって真実や実話を開陳していたのではない。彼らのウェブサイトはWWWという世界的な情報ネットワークにアップロードされていたけれども、その実、彼らの意識は自分と趣味や境遇をシェアできそうな人間のほうを向いていた。

 全世界、いや全日本にむかって自己開陳し、人気者になりたいと思っていた人間、実際にそのように振る舞える人間が、あの時代の個人ウェブサイト主のなかにどれだけいただろうか?ごく少数の例外を除けば、せいぜい「同じ趣味の人間がときどき訪れてくれれば満足」だったのではないか。

 ファンフィクション系のウェブサイトのなかには、トップページに「同じ趣味の人間にしか読まれたくない」と立て看板を据えているものも珍しくなかった。現在のネットの常識からすれば馬鹿げてみえるかもしれないが、そういった立て看板がインターネット習俗のひとつとして認められていたのである。「無断リンク禁止」という言葉もあった。「ウェブサイトには大事なものを書いておきたいし誰かに読んでもらいたい。でも、読んでくれて良いのは趣味や境遇にシンパシーを感じてくれる相手だけ。」――そういう意識が露わになっていた。

 こうした意識を強化していたのが、どこのウェブサイトにも存在していた「リンク集」である。リンク集は自分に近しい(と感じられる)ウェブサイト主への架け橋であると同時に、趣味や境遇、文脈をシェアしたウェブサイト同士が連携するための結び目だった。リンク集は一方通行ではなく“相互リンク”であることが望ましいとされていた。そうしたリンク集が無限に連なり、趣味世界のリゾーム(地下茎)を張り巡らされていたのが検索エンジンが飛躍する以前のウェブサイト世界だった。

 そんなウェブサイト世界だからこそ、真実や実話の告白は、世間に向かってではなく、自分に近しい価値観の人向けに・外の人間よりは内輪の人間に向けてのものとなる。「わかってくれる人だけわかってくれればいい。」。2ちゃんねる系のスレッドにしても、真実や実話は全インターネット世界に向けてではなく、スレッド住人同士というこれまた閉じた世界に向けて書かれるのが専らだった。

 彼らが他人を意識していなかったわけではない。彼らが承認欲求とは無縁だったとも思えない。しかし、書き手としても読み手としても、あの頃のウェブサイトは狭い範囲を意識して真実や実話を書き連ねるのが一般的だった。

「内輪の真実」から「世界に語られる真実」へ

 ところが十余年の間に、インターネットは大きく変わった。

 現在のインターネットの網目はリンク集によって編まれてはいない。SNS、検索エンジン、(ニコニコ動画やpixivやはてなといった)各ネットサービス固有のリンクによって編まれている。リンク集が地下茎のように連なる構図は廃れ、鍵となるポータル・鍵となるアカウントから放射状にリンクが伸びていく構図が優勢になった。

 ネットの結び目が変わっていくのと時を同じくして、インターネットの書き手/読み手の意識も変わっていった。「同じ趣味の人間にしか読まれたくない」「無断リンク禁止」といった意識は00年代後半あたりまで一応生き残っていたが、2010年代が進むにつれて物珍しくなっていった。今、そんな事を言おうものなら笑われてしまうだろう。

 現在のツイッター芸人やブロガー、ユーチューバ―志望者らは、検索エンジンやキュレーターを介してアクセスが直接飛び込んで来ることを期待さえしている。趣味や文脈を共有した読み手だけを想定している人はあまりいない――控えめに言っても、十年前に比べれば減った。炎上対策や炎上マーケティングも含め、新進のネット芸人達は「世間の誰がみていてもおかしくない」前提で活動している。

 意識が変わり、トラフィックも変われば、そこで語られる“真実”や“実話”も変質せざるを得ない。

 拙い文体が、ライターやエッセイストのごとき文体に置き換わっただけではない。「わかってくれる人にだけわかればいい」的な打ち明け話は、もっとローコンテキストで、誰でも読み取り可能な打ち明け話へ編集されていった*1。不特定多数の目を惹くなら、本当の話をそのまま書くべきではない。「マクドナルドの女子高生同士の話によると……」テンプレートなどが典型だが、実話をコンテンツに仕上げるための編集や改竄は日常的に行われる。それどころか実話が“創作”されることさえある。「皆に読みやすいかたちにしてナンボ」「不特定多数に理解できるかたちにしてナンボ」なのである。インターネットはメディアとなり、“真実”や“実話”はコンテンツになった。

 今日のインターネットにも、真実や実話は流通している。ただ、その内実はミレニアムの頃とは違うし、それをアップロードする人間の意図や意識も違う。もちろん全ての発信者が、真実や実話を編集しコンテンツにまとめあげる技術を身に付けているわけではない。だが、そのような編集の才はたえず求められてはいるし、内向きの打ち明け話を志向する人間は陰でコソコソやるしかない*2。良い意味でも悪い意味でも、誰がみているかわからないという意識が求められるようになった。

「網目が変われば意識も変わる」

 この文章には、気の利いた結論はない。

 ただ、現在の風景を意識しながら十年以上前のウェブサイト網を思い出すと、読み手としてだけでなく、書き手としての意識も変容していったのだなぁと詠嘆したくなり、過去にみられた内輪向けの真実や実話のたぐいが、なにげにリンク集というアーキテクチャに依拠していたんだなぁと気づいたので、とりあえずそれを書き留めてみた。もちろんそれだけじゃなく、単純にネットユーザー総人口が増大したからってのもあるだろうけれども。

 ともあれ、ネットの網目と書き手/読み手の意識の問題は、これから新しいネットサービスが流行するたび振り返っておいたほうが良い気がするので、そのたび、この文章を読み返してみようと思う。

*1:もしくは、ハイコンテキストな読み手にはそれとわかる目配せをしながら、全体としては一見さんでも主旨が読み取れるような打ち明け話に。

*2:稀に、リテラシーの低いユーザーが犯罪自慢のようなことをやって見事に炎上するが

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