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「日本統治下の朝鮮半島を見る」

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半島における日本統治下の実相はいかなるものであったのか?

それを個別の項目において統計に基づき見てみることにする。

1:人口



1789年(李朝正祖13)当時740万人とされていた半島人口は1904年調査時には600万人とされている。しかし1910年調査では1330万人であり、結果として1904年調査は極めて脱漏が多いことは明白である。また、1911年以降、人口増加率は概ね1.5%前後である。人口調査における脱漏の多さは政府の統治能力の退潮を表す一つのバロメーターではあるが、日本同様鎖国国家として考えれば、飢饉などでの人口調整があったとしても、概ね「開国時期」の人口に近い規模の人口であったと考えるのが妥当ではないだろうか。

移動の問題としては、朝鮮からの内地(つまり日本本土)移住は1920年頃から本格化し、1930年代に50万人を超え、1940年には100万人を突破、終戦時には220万人を超えていたとされる。もう一つ注目されるのは、満州地域への移住で1920年には早くも50万人を超え、1930年代半ばには100万人を突破、終戦間際には150万人にも上っている。在日・在満の移住数が逆転するのは1940年である。

ここで注目すべきなのは、日本への移住が本格化する前の1919年に早くも総督府通達で「朝鮮人の旅行取締に関する件」として抑制が図られている上(賃金格差があったため移住が進んだものと考えられ、これは本土においては「低賃金労働」の奪い合いという問題を生じたと考えられる)、1922年には今度は「日韓一体の原則に反する」としてこの通達が廃止されていることである。さらに1939年には戦争激化に伴う労働力不足から内務省・厚生省通達で朝鮮人労務者の自由募集を、1942年には官斡旋を、1944年には徴用令の適用がされている。逆に、半島における日本人比率は1910年頃には1.5%程度だったものが、1940年頃には3%に近い数字となっている。1930年代マレーやフィリピンなどの西洋殖民地では本国人比率は0.1%〜0.4%であり、この点で日本と半島間での人口移動は極めて規模が大きいものであったと考えることができる。日本人の半島移住は都市部を中心として行われ、1931年当時京城府では総人口36万人のうち10万人が日本人であったと言われる。実に3割に近い数字である。政府(総督府)や企業の枢要を押さえ、その上でこの人口比率では感情的反発は当然生まれるであろう。

2:治安



犯罪発生件数で見ると、1910年頃には千人あたり5件、1920年代前半で10件、1935年頃で15件でその後は反落し1940年頃には再び10件程度となっている。1920年代はいわゆる武断政策から文治政策へ転換された時期でもあり、憲兵警察から普通警察へ転換が行われた時期でもあるが、実際のところ10件〜15件程度と考えて差し支えないと考えられる。ちなみに参考数値としては、現在の日本において交通違反などの軽微なものを除いては刑法犯発生件数は千人あたり14件程度である。問題なのは処理件数比率(これを検挙件数としてカウントするかは微妙ではあるが)が8割を超えている点である。現在の日本での検挙率は4割程度であり、常識的に考えて相当無理のある調査と多数の冤罪が含まれていたであろうことは容易に想像できる。

3:農業



半島において農業の中心はまず米である。李朝初期には積極的な農業育成が取られたが、その後暴政に加えて秀吉の朝鮮出兵、続いて後金・清の侵入などがあり全国的に荒廃が進んだと言われる。18世紀には英祖が農政の刷新と水利施設の整備に努めたが、一方で多数の堰堤が廃止されるなど、全体として立ち直るほどにはならなかったと推定される。

米以外の産物としては朝鮮人参が有名であるが、綿もまた貢納品となるほど品質が良く、日本人から見ても中国・インドに匹敵する品質と評された。

また、農業生産性の問題では農具・肥料の後進性が指摘される一方、牛耕については日本よりも進んでいると評されている。

農法の問題としては焼畑が問題であり、これについてはその停止を図ったが、結局それは日本統治下においても完全な停止には至らなかったようである。

一戸あたり生産額では300円程度で一貫して停滞し、干拓事業などにも関わらず農家戸数の増加などもあり、まったく生産性が向上していない。本土の米騒動を発端とする内外での米増産運動は朝鮮ではインフレや計画の粗雑、農民反対などもあり成果を挙げなかった上、化学肥料の浸透でようやく収量が上がり始めた1930年代には今度は本土・台湾での豊作があり価格が下落し、またもともと朝鮮米は本土米と比較して価格が6割程度であったことから、総督府と本土との間で米の『輸出』に対する価格差での摩擦が生じるなど、まるでチグハグな結果となっている。朝鮮米の日本への『輸出』については、「飢餓輸出」と称する向きもあるが、これは現実とは異なるだろう。そもそも換金作物がそれほど広まらなかった半島において(これは天候や地勢の問題も大きい)、貨幣経済の浸透と市場化により、米を換金して他の消費に充てた、ということもあるだろう。1939年・40年は旱魃・水害に見舞われ大幅な減収となっているが、そもそも1930年代後半は収量が大きく伸びていた時期でもある。

また1930年代の宇垣総督時代、農村の深刻な負債(総額4億円、全半島農戸の57%)に対して農村振興策が取られ、1930年代の収量増に加えて低利融資により高利負債を返済させるなど、一定の成果を上げている。また1935年には小農家の事業団制度を整備し、農村の組織化が図られた。また1920年代後半にはそれに先駆けて農業組合の整理・統合、強制加入と会費の強制徴収が行われるようになった。これは一面では「統制の強化」であったが、これらの基盤の元に技術移植や収量増のためのノウハウが効率的に伝えられるようになった側面もあると考えられる。

しかし、根本問題としては朝鮮の農業生産が米に偏重していたため(そして日本米同様国際競争力は無いと考えられるため)、結果として農村の収入増が難しかった、という側面はあると考えられる。

4:教育



ハングルについては世宋王時代に頒布されたが、科挙は漢文であり、あくまで市井の文字でしかなかった。しかし、17〜18世紀にはハングルで文学書が書かれるなど、一定程度は既に「統治前」に普及していたと考えるのが妥当であろう。

一つの転機となるのは日清戦争後の甲午改革であり、この改革により「法律勅令はハングルを正とし、漢文は付訳」とされた。これは画期的なもので、公用文としてハングルが採用されたのである。この改革は日本からの勧告もあって行われたものであり、科挙に代わる官吏採用試験でも漢文に加えてハングルが採用されている。ここには確かに日本の影響があった。加えて1896年にハングルで新聞が発行されるなど、ナショナリズムによる朝鮮民族自身でのハングル推進が行われたことも忘れてはならない。

ハングルの地位向上に日本は影響を及ぼしたのであり、加えてそこには朝鮮民族自身のナショナリズムという後ろ盾もあったのである。また、併合前の1907年より韓国政府自身の手によって国文研究所が創られ、ハングルの統一(地方間でのバラつき)を目指した動きがあったが、これは日韓併合により一端停止する。統一ハングルは1912年に制定されたが、これは遅かれ早かれ実現したと考えるのが妥当だろう。日本がハングル普及・公用語化を後押ししたことは事実であろう。一方で日本が統治しなければ「ハングルの普及は無かった」とするのもまた誤りである。

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