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  • 橘玲

マネーゲームと評判ゲーム

「相続税は道徳的に正当化できるか?」にさまざまなコメントをいただいた。「正義」についてはいろいろな意見があるだろうが、ここではまたすこし違う視点からこの問題を考えてみたい。

武富士元会長の長男は、父親から武富士株1600億円相当を贈与され、それに対して約1300億円の追徴課税を受け、その取消しを求めて裁判に訴えた。今回の最高裁判決で、裁判中の利子分を含め約2000億円が返還されることになる。

ところで、もし今回の裁判で負けていても、長男の手元には(武富士株をどのように処分したかにもよるだろうが)300億円が残っている計算になる。それが逆転勝訴によって2300億円になった。だがこの金額は、有限にしか生きられない人間にとってどれほどの違いをもたらすのだろうか?

お金は、増えれば増えるほどその魅力が減っていく(限界効用が逓減する)という特徴を持っている。サラリーマンが生涯に獲得する収入は約3億円といわれているが、その何十倍や何百倍の資産を持っていても、一夫一婦制などさまざまな社会的制約があるなかで個人にできる放蕩や散財には自ずと限界があるだろう。

毎月かつかつの暮らしをしていてる若者が、ボーナスが10万円増えたとしたら、彼女(彼氏)と旅行に行けてものすごくうれしいだろう。1600億円の資産が300億円に減り、それが長い裁判の果てに2300億円に増えたら、それと同じくらいうれしいだろうか(私には経験がないのでわからないけれど)。

誤解のないようにいっておくが、これは「貧乏ほど幸福で金持ちは不幸だ」ということではない。お金の主観的な価値は、貧しいほど大きく、豊かになるにつれて小さくなっていく、というだけのことだ。

それに対して評判は、限界効用が逓増する。いったんよい評判を獲得すると、もっとよい評判が欲しくなる(それと同時に、評判を失うことを恐れるようになる)。これがなぜかというのは難しいのだけれど、社会的な動物としての人間はそのようにプログラムされて生まれてきた、としかいいようがない。同じ社会的な動物であるチンパンジーやボノボもそうだろうけれど、評判を気にしない個体は子孫を残せずに淘汰されてしまったのだ(もちろんこうした傾向が文化的に強化されたというのもある――名誉を失うくらなら死を選べ、というように)。

そう考えれば、一定以上の(使い切れない)資産を獲得した合理的な個人は、それを「評判」に置き換えようとするだろう。

世界一の資産家となったビル・ゲイツは、子ども(一男二女)が生まれたばかりの頃から、「財産はすべて社会に還元し、子どもには必要最低限しか残さない」と公言していた。妻と共同で創設したビル&メリンダ・ゲイツ財団は、いまや世界最大の慈善基金団体だ。

億万長者の投資家であるウォーレン・バフェットは贅沢を毛嫌いし、生まれ故郷のオマハに20代のときに購入した家に住み、チェリーコークと大衆食堂のハンバーガーをこよなく愛している。バフェットは資産の7割にあたる310億ドルを、ゲイツ財団に寄付することを明らかにしている(それ以外の財産も死後はバフェット財団などに寄贈するという)。

もちろん彼らは、1セントの税金も払わずに自らの資産を子どもたちに残すこともできる。アメリカは世界でもっとも過酷な税制を持つ国として知られるが、それでも米国外に居住地を移し、アメリカ国籍を離脱し、一定期間を経過すれば納税義務は消滅する。ではなぜ、彼らはそうしようとしないのだろう。

その理由はもちろん、これまで築いた評判を守るためだ。国を捨てたカネの亡者のことなど、誰も尊敬してくれない。そんなことになれば、誹謗と中傷にまみれ失意と絶望のうちに余生を過ごさなくてはならない。彼らが賢ければ(もちろん十分以上に賢いだろう)、こんな不利な取引をするはずはない。

ところで、彼らが富を社会に還元するのは、社会がそのような行為を高く評価するからだ。慈善家がまったく尊敬されなかったり、寄付が控除されず税金だけが高くなるような社会では、こんなバカバカしいことは誰もしようとは思わないだろう。

だとすれば、資産家が富と評判を交換しようとする(慈善に強いインセンティブのある)社会では、そもそも相続税は不要ということになる。アメリカで相続税(遺産税)の廃止が議論されるのも、こうした背景があるからだろう。

それに対して、日本社会はどうだろうか?

この国には、ゲイツやバフェットのような慈善家はいない。そのかわり、匿名のたくさんのタイガーマスクがいる。

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