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映画『ベイマックス』に見る秀才たちの限界

メチャクチャよく出来ているが……引っかかる!

やっとのことで、遅まきながらディズニーアニメ映画『ベイマックス』を見てきた。現在Yahoo!の映画欄でレビュー評価は4.3と高得点、興行ランキングも第一位。つまり質量ともに高く評価されているわけで、当然期待しつつ出かけたのだけれど……確かに、すばらしい出来だった。徹底的に練った脚本、キャラクター設定の妙、いわば「スーパー戦隊もの」として息もつかせぬ畳みかける展開、それでいてディズニーのファミリー・エンターテインメントのイデオロギーをしっかり踏襲し、さらに最後には泣かせるシーンまで。いやいや、それだけではない。グローバルなビジネス展開を見据えて”サンフランソウキョウ”というサンフランシスコと東京をゴッチャにした街を舞台にする周到さ、そして兄弟愛(ヒロとベイマックスの関係は、死んだヒロの兄・タダシとヒロの関係のメタファー)、仲間との友情……とにかくこれでもかと情報を詰め込み、これをキレイに並べて一本のストーリーとして展開しきってしまうところは、もう見事という他はない。

ただし、である。ちょっと僕は「引っかかって」しまったのだ。そして、これはPixar→ディズニーというJ.ラセター的世界に共通する「引っかかり」なのだが(とりわけ、最近ますます「引っかかって」いる)。で、今回はその完成度が高いだけに、余計「引っかかって」しまったのだけれど。ちなみに僕の『ベイマックス』のレビュー評価は★四つだ。これだけきっちり手をかけて作られているのに★五つとしないのは、まさにこの「引っかかり」にある。今回は、この「引っかかり」をテーマに『ベイマックス』、そしてディズニー=Pixar=ラセターの手法と未来を考えてみたい。

『ベイマックス』を絶賛し、ジブリに引導を渡したブログ

映画を見に行く前「『ベイマックス』を見て日本のクリエイティブは完全に死んだと思った」(http://anond.hatelabo.jp/20150104012559)というブログを読んだ。これは日本のアニメがなぜダメになって、ディズニーがスゴイことになっているのかを論じたものなのだけれど、要約すると日本は「作家主義」つまり宮崎駿、庵野秀明、細田守というカリスマ=天才が中心となって作品を作るが、これだと当たり外れが出てしまう。一方、『ベイマックス』は「チーム主義で「どうやったら面白いか」をみんなで必死に考え、ダメな部分を補強していく」。つまり天才VS秀才の対決図式の展開なんだけれど、ディズニーの場合は、秀才が寄ってたかって短所を埋めることで結果として良質の作品に仕上がっている、その象徴とも言える存在が『ベイマックス』なのだという主張だった(日本は作家主義で、作家たちがジジイになって才能が枯渇したからダメになったということなのかな?)。

この議論それ自体に、異論は無い。冒頭に記したように、ディズニーの場合、確かに、とにかく映画を作ることについては、事細かな配慮を徹底的に行い、全くもってソツが無いのだから。いや~、これについては呆れるほど、スゴイ!

しかし、しかし、である。やっぱり、ひっかかる。

『ベイマックス』から思いついた二つのエピソード

僕は『ベイマックス』を見ながら二つのことを、ふと思い出した。

一つはウイントン・マルサリスというジャズ・ミュージシャンの存在だ。ジャズ好きならこのトランペッターを知らない人はいないだろう。現在53才だが、18才で音楽の殿堂・ジュリアード音楽院へ入学するとともにジャズのメインストリームにのしあがり、23才でジャズ、クラッシック両部門でグラミー賞を獲得。97年にはピューリッツァー賞の音楽部門賞も獲得と、とにかくスゴイ人物だ。演奏は完璧そのもの。ものすごく正確な音を出すし、表現も豊かなのだけれど……にもかかわらず、古くからのジャズ・ファンには結構評判が悪い。なぜって?まるでサイボーグみたいだからだ。ジャズ好きはトランペッターだったらチェット・ベイカーやリー・モーガン、ルイ・アームストロング、サキソフォン奏者ならエリック・ドルフィーやジョン・コルトレーン、ベーシストならチャールズ・ミンガス、ジャコ・パストリアスといった、ちょっとイカれた「妖しい」連中を好むのだけれど、マルサリスにはこの「妖しさ」がまったくといってよいほどない。マルサリスはひたすらパーフェクトなのだ。それは、なんと「感情の表現」に至るまで……。

もう一つは70年代前半に少年漫画雑誌に掲載されたプロ野球漫画。作者もタイトルも忘れてしまったが、ストーリーはこんな感じだった。

2000年、ジャイアンツは長嶋監督の下、相変わらずプロ野球界の盟主としての地位を確保していた。ただし、その人気を維持する重要な役割を果たしているのは人気者のエースの存在があったから。このエース、なんとロボットなのだ。このロボット(ベタにメカニカルなロボットが描かれていた)、スゴイ球を投げると言うより、キチッと勝利するようにプログラムされているのだけれど、人気の秘密はそれとは別のところにあった。結構、失敗をやらかすのだ。そして、その失敗のおかげで、客たちには「人間味がある」と、人気を博することになる。もちろん、この失敗も人気を獲得するためにプログラムされたものなのだ。だが、監督・長島の胸中は複雑だ。何もしなくてもこのロボットが試合を成立させ、なおかつお客を楽しませてくれる。で、ジャイアンツもプロ野球も安泰で文句なしのはずなんだけれど……長嶋はふとつぶやくのだった「これって、はたして野球なんだろうか?」

秀才サイボーグによる作品作り

僕が『ベイマックス』に象徴されるラセターの作風、いいかえればディズニーによるPixar吸収後のディズニーアニメの作風に感じてしまうのは、上の二つのエピソードに感じるものと共通する。以前、現代思想哲学者の東浩紀は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)の中で、ギャルゲーの特質を「ウェル・メイド」という言葉で表現した。ギャルゲーにおいては、程良く萌えて、程良く泣けるといったふうに、感情を消費できるデータベース消費が可能になるというのが東の主張だった。これは言い換えると、僕らが何に感動し、怒り、どういった映像やサウンドを好み、誰とどういったシチュエーションで作品を見るのかなどを全て計算し尽くし、それらを満遍なく処理し、作品というパッケージ=システムに作り上げ、僕らを楽しませることを意味する。

ラセターがやっているのは、まさにそう言うことなのでは?しかも東がイメージしたものよりも遙かに精緻な形で。脚本家20人にチームとして脚本を徹底的に練らせて、短所を修正、不足部分を全て補填し、さらに、それらがわざとらしくないように、いわば「ツルツル」になるまで展開に磨きをかけていく。そうやって出来上がった作品は「ウエル・メイド」どころか「スーパー・ウエル・メイド」とでも呼ぶべきもの。観客である僕らは徹底的に研究し尽くされ、そこから誰もが感動させられ、笑い、泣き、そして時には怒る。なんのことはない、これは恐ろしいまでのマーケティングの手法なのだ。そして、前述したように研究し尽くした結果。つまり、もはや観客たちはディズニー=Pixar=ラセターたち完全に舐められているのだ。

チーム主義の落とし穴

ただし、である。この「チーム主義」には重大な落とし穴がある。それは、これが前述したように、いわば「秀才集団によって人間の心理をマーケティングした結果、アウトプットされたデータ」でしかないことだ。出来上がった作品は、いわば「精緻なモザイク」「膨大な数のピースから成るジグソーパズル」。観客たちはこの膨大なデータベースの中に身を投げることでイリンクス=めまいを感じ、そこに一つの快楽を見いだすのだけれど……所詮はモザイク、ジグソーパズルでしかない。ということは、これを脱構築、つまりどんどん分析、分解していけば、結局、後は何も残らないという「水」のようなサラサラした構造が露呈する。僕が最近のラセター作品に感じるのが、実はこれだ。なんのことはない、最終的に分解可能なのだ。ということは、映画を批評する行為が「批評」と言うより「解体処理」みたいな作業になってしまう。で、それは……「アート」という視点からすれば、きわめて遠い存在。むしろ、それは「工場で生産される商品」なのだ。当然、そこには「妖しさ」は微塵も感じられない(ちなみにラセターの作品全てがそうだと言っているわけでは無い)。要するに、これが『ベイマックス』に感じた僕の「ひっかかり」なのだ。この、いわば「引っかかりの無いことへのひっかかり」は、作品を見終えた直後に感じることができる。見ている最中は感情が揺り動かされるのだけれど、終わった後は全く後を引かない。後味スッキリ、余韻が全くないのだ。そして、この作品、新しい側面が全然見えないのである。秀才は整理できるけれど、新しいものを生成することは出来ない?

恐らく、これこそがラセター的=秀才集団的=マーケティング的手法なのだろう。そこには当然、かつての宮崎駿が放っていた「妖しさ」は感じられない。僕らは『未来少年コナン』『ルパン三世カリオストロの城』『風の谷のナウシカ』『となりのトトロ』といった宮崎の初期の作品(晩年のものは全くダメ)になぜか思い入れがあり、思わず何度も見てしまうが、それは天才の持つ「妖しさ」、いいかえれば分析不可能で異様な「ドキッとする」オーラに、僕たちがひたすら見入り続けている(洗脳され続けている?)からに他ならない。1月16日、『カリオストロの城』が日テレで放送された。本作が14回目の再放送にもかかわらず14.5%もの視聴率を上げたのは「何をか言わんや」だろう。

ラセター的秀才集団手法にも、未来はあるかも?

ただし、ただし、である。ラセター的手法でも時にオモシロイものを見いだすこともある。それが昨年の『アナと雪の女王』だ。僕のこの作品の評価は、まあ三つ星程度。この作品、登場人物の描かれ方が全くもっておかしいし(ハンス王子などは統合失調症じゃないかと思えるほど、立場がコロコロ変わる。アナがなんであそこまで姉思いになるのかについては全くもって根拠がない)、ストーリーはきわめて不自然だ(ストーリーのみなら星一つか二つくらいしかあげられない)。これは秀才集団が作品に必要な情報を、それぞれがどんどん盛り込み、短所をどんどん潰していった結果、情報量が過多になってしまい、ストーリーが破綻してしまったからに他ならない。つまり秀才集団はとにかく「処理する」ことに長けてはいるが、全体を統合することについてはダメなのだ。だって、ビジョンがないんだから。だから、あの作品は笑えるくらい荒唐無稽でぶっ壊れている。

ただし、ただし、ただし、である。天邪鬼なのか、こういった破綻をむしろ僕は面白く見てしまった。というのも、そこには新しいアイデアが盛り込まれてもいたからだ(作った本人たちもわかっていないんだろうけれど)。しかし、まとめ上げることは出来なかった。こっちの方が「妖しさ」という点では上だ。そして、『アナ雪』のいちばんの妖しさは、言うまでもなく音楽だった。あの音楽の強烈さ(そして日本人声優のチョイスの絶妙さ)は、単なるマーケティングでは予測不可能なものだったろう。だから、僕は『ベイマックス』より遙かにレベルの低い『アナ雪』の方に、むしろ未来を見てしまうのだけれど。

ラセターがディズニーアニメに新しい方法論を入れようとしているのはよくわかる。ただし既存のものを加えるというやり方で。ディズニーに戻り最初に手がけた作品『BOLT』は『トゥルーマン・ショー』の『ベイマックス』は日本の「スーパー戦隊シリーズ」の、そしてPixarの次回作『インサイド・ヘッド』は『マルコヴィッチの穴』あたりの手法をパクったものだろう。それ自体をとやかく言うつもりは毛頭無いのだけれど、それが「妖しいもの」になるかどうかは未知数だ。

さて、ラセター的ディズニー世界。これからどっちの方向に向かうのやら?

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